パルキッズ通信 特集 | スピーキング, 学校英語教育, 就職, 日本の教育, 論理的思考力
2013年6月号特集
Vol.183 | 英語は何でも叶える魔法の杖?
英語と日本語の違いでわかるコミュニケーション能力の差
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
http://palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-1306/
船津洋『英語は何でも叶える魔法の杖?』(株式会社 児童英語研究所、2013年)
教育再生会議が「スーパー・グローバル・ハイスクール(仮)」なるものを制定して世界で活躍できる人材を育成しつつ、同時に世界大学ランキングのトップ100に日本の大学10校以上をランキングさせることを5年で達成する、そんな提言をまとめたようです。中身は、というと英語教育を重視したカリキュラムがあり、英語ネイティブの教師を採用しており、海外留学に実績のある高校をそれ(スーパー・グローバル・ハイスクール)と制定するようです。
この流れで小学校における英語のさらなる低学年化ならびに教科化も加速される方向のようですが、中学英語との連携(小学英語では中学で習うことを前倒しできない)、教員の資質(小学校の先生は英語の専門ではない場合がほとんど)、ALTの確保(世界的なALT不足)など問題山積で、議論と計画だけが先走りしている感はぬぐえません。
この「英語!英語!」の潮流の根底には、日本人はグローバル化に乗り遅れていて、その理由は英語が出来ないことにある、との考え方があります。そして、そのグローバル化の波に乗るためには「英語」を身につければよい、との結論に達している、というか飛びついている。そんな図式が見え隠れします。そもそもこの考え方自体が果たして正しいのかどうかは、吟味されたのでしょうか。「英語修得=グローバル化」この単純な図式には、これまた少々首をひねらずにはいられません。なぜこのように考えてしまうのか、このあたりには根深い日本人的発想があるのかも知れません。少しそのあたりを掘り下げてみていきましょう。
日本人は英語を「便利な道具」と考えていて、この「便利な道具」の “使い方” を身につけることが、イコール英語を使いこなせるようになることと考えているようです。もう少し正確に言えば、「英語という道具そのもの」を身につけるのではなく、英語を日本語に変換したり、日本語を英語に変換したりする技術、これを身につけることがすなわち英語を使えるようになることだと漠然と感じているのかもしれません。そして、例外的に「アメリカ人ならこう言うんだよ」といった表現が存在して、それは英会話学校などで教えてもらえるもの、とも感じているようです。
つまり、英語を日本語に訳したり日本語を英語に訳したりする技術に加えて、それだけでは少々足りないので、英語特有の表現を身につければ英語は使えるようになる、という考え方です。
そして、英語を身につければ、冒頭のグローバル化も達成され、大学ランキングも上がり、賃金も上がり、豊かな人生を送ることが出来る。英語というのはさながら魔法の杖みたいなモノなのでしょう。日本人と英語との関係を見るに付け、日本人は英語に対してそんな印象を抱いているのかも知れない、と私は感じてしまうのです。しかし、問題はもっと根深い。英語の学習の仕方も、グローバル化も、もっと違うところに問題は根付いているのです。
| ぼやかそうとする日本人
日本語と英語は構造の違いもさることながら、そもそも発想が全く異なる言語です。たとえば、日本人は何かをしたいと感じた時、「~したいと思います」とか「~したいと考えております」などと言いますね。これらを学校で習ったとおりに、そのまま英語に置き換えようとすると、“I think I want to ~.” “I’m thinking that I want to ~.” など、大変奇妙な文章になってしまいます。
何が「奇妙」なのかというと、英語を話す人々の耳には、本来の趣旨である「私は~したいと思います」ではなく、「私は~したいの “かも知れない”」という印象を与える文章になってしまっているのです。
日本語の「私は~したいと思います」は、英語に訳すなら “think” を使わずに “I want to ~.” と言えば伝わります。つまり、学校で習った通りに日本語をそのまま英語に置き換えると、奇妙な英語になってしまう可能性があるのです。
これは、日本人が日本語でものを言う時に、自分の考え方や現状説明の際に、正確に伝えようとせずに、なんとな~くぼかして言おうとする傾向があることが原因です。無意識のうちに言い切ることを避けているため、日本語の発想は少し曖昧になります。
これに関しては、思い出されるエピソードがあります。私が高校の時分、留学中に、友人宅で開催されるパーティーに誘われました。”Do you want to come?” と尋ねられて、“Maybe I want to come.” と答えてしまい、「お前は自分が来たいのか来たくないのか、そんなことすら分からないのか?」と言われたことを未だに鮮明に覚えています。
私としては、ホストファミリーの許可を得なくてはいけないし、パーティー会場となる友人宅までの足がなかったので、その手配などを考えて、つまり「行きたいんだけど行けるかどうか分からない」という気持ちを込めて、上の答えとなってしまったのですが、これがとても曖昧模糊としていたわけです。言うとすれば、“I want to come, but I’m not sure if I can. I have to check with my family first and I also have to ask them if they could take me to the party.” …と、このように言葉を尽くして、自分の置かれている状況を説明すれば良かったのでしょう。
日本人は、傾向として「発信型」ではなく、「受信型」の思考をします。つまり、自分の考えを相手に伝えるのではなく、相手の気持ちを察する方向に思考のベクトルがあるのです。そして、発信する癖がついていないので、自分の置かれた状況などを伝えるのに,具体的に説明できず、言葉少なに “maybe…” とやってしまい、あとは彼らに「察してくれよ」とボールを渡してしまう。こんな日本人を見れば、アメリカ人のような「ものを伝える文化」の住人たちには「日本人は一体何を考えているのやら…」との印象を与えてしまうのは仕方がありません。
| 察するのではなく、発する
こちらが大変気にかけているのにもかからず、気ままに振る舞う人たちを見て、日本語では「人の気も知らないで…」などと言うことがありますが、これは英語では成立しません。もし英語で “You don’t know my feelings.” とでも言おうものなら「あなたの気持ちが私に分かるわけがないだろう。詳しく説明してください。」との言葉が返ってくるはずです。
これは当然のことで、多民族国家のアメリカ、もしくは昔から民族間の交流が激しかったヨーロッパでは、個人間、民族グループ間で価値観が異なります。つまり、相手の気持ちや考え方は、きちんと言ってもらわないことには理解できないのです。
一方で日本人はといえば、ほぼ単一民族で共通の言語を持ち、農耕民族であるという共通の価値観を持っているので、他人というのはほぼ自分であり、多少の違いがあっても、自分の思考を延長していけば相手のことは理解できるはずだという経験的な思い込みがあります。もしくは完全に他人を理解できないまでも、習慣や儀礼などの同じ文化から生じているルールを守れば、ほとんどの人と軋轢を生じさせないまま、平穏に暮らすことが出来るのです。
日本人がグローバル化できない本当の理由はここにあるのです。
つまり、相手の気持ちを「察して」みる。そして、もし察しきれなかった場合には、諦めてしまう。それでも同じ集団内では、うまいこと生きていけるのです。そこでは「伝える」という手順は不要です。そして、それ(伝えること)をする人たち、例えば、自分の考えを強く主張したり、相手に説明を求めるような人たちは、往々にして「騒々しい人」「分からない人」として厄介者扱いされてしまうのです。伝える気持ちを持っている人たち、つまりグローバル化の精神を持っている人たちをはじき出して厄介者扱いする、ことの善し悪しは別として、日本社会構造、文化自体がグローバル化と相反するものなのです。
さて、このように、欧米人と私たち日本人は、根底からコミュニケーションの取り方が異なります。グローバル化しなければならなかったアメリカ・ヨーロッパ、そこに住む人たちは「伝える文化」を有するのに対して、グローバル化する必要が全くなかった日本人は「察する文化」だけでよかったのです。そして、このコミュニケーションの方法の根底にある違いは、その言語の学び方の違いにも表れています。
| 言葉に執着するアメリカ人
相手の気持ちを察するのではなく、説明してもらって理解する文化のアメリカ・ヨーロッパ。相手に説明してもらうということは、裏を返せば「こちらも相手に説明できなくてはいけない」ことを意味します。自分の言葉の運用能力を磨くことが、常に要求されるわけです。もはや、これは他人事ではなく、日本の社会も少しずつこの方向へとシフトしていますが、この点は後述しましょう。
ただ、現状として、日本では高い言語能力が要求されることはほとんどありません。そんなことは、弁護士や文筆家などの言葉の専門家にでも任せておけば良いわけです。一般の人たちは、自分から発する訓練をしなくても、ひたすら慮っている、もしくは他人のことを考えているよ、という姿勢を持ち続ければ、平穏に暮らしていくには充分なわけです。当然のごとく、言語能力は高まっていきません。高まるはずがないでしょう。
日本の学校では言葉の学習は、漢字の練習や音読、または文法や言葉の使い方の解釈、はたまた作文などを通して行われますが、論理的な考え方、などはほとんど勉強する機会がありません。
この点アメリカでは異なります。とにかく論理性を練る練習をさせられます。
まずは基本となる語彙力。小学校では、単語を正しく綴ることを要求されます。これに関しては「スペリングビー」と呼ばれる、単語力と綴りの知識を競い合う全米規模の競技会があるほどです。英語圏では「単語力が思考の幅を決定する」と考えられていて、語彙力がとても重要視されていることの表れでしょう。
しかし、何といっても英語圏の教育の最たる特徴は「クリティカル シンキング」と呼ばれる考え方を取り入れている点でしょう。クリティカル シンキング(critical thinking)とは「批判的思考」と訳されます。日本語の「批判的」という語感から「難癖をつける」「反対する」という印象を受けられるかもしれませんが、「批判」とはそもそも「ものごとを検討し評価、判定すること」なので、決して難癖をつけたり、何でもかんでも反対することではありません。英語でも ‘critic’ とは “one who passes judgment,(判断を下すもの)”, “able to make judgments(判断を下す能力)”, “to separate, decide(分けること、切り出すこと)” から派生している言葉です。
つまり「クリティカル シンキング」とは、ひとつの考え方を論理性を持って検証していき、筋が通っているか否かを判断していく能力です。議論においては、相手の発言の瑕疵を発見して、それに論理性を持って反論していくわけです。
そのためには、まず論理的にものごとを考えることが必要になります。その練習として、まずは自分の考えを話してみることから始めます。最初は、論理性も何も無くて良いのです。自分の気持ちだけでも良いから話してみる。それがアメリカ人などが、まぁ、口癖のように,話の切り出しに使う “I think…” となるわけです。とあるトピックについて、何かを感じる。そうしたら、“I think…” と言うわけです。
アメリカでは、学校の授業もこの伝で進められます。まず、学生たちは予習をさせられます。「明日までにこれを読んで来なさい」と宿題を出され、翌日の授業では「読んできたか?」「で、君はどう考えるのか?」と尋ねられるのです。生徒は “I think…” を日々繰り返すことになります。そして「なぜそう感じるのか?」「その根拠は?」と質問が続き、自分の考えに論理性を付け加えていきます。子どもたちは、自分の頭の中で何が起きているのかを、深く深く掘り下げていくことになるわけです。
このように授業が展開すれば、学生たちは否応なく、自分の考え方を発する習慣を身につけ、その論理性に瑕疵がないように思考を武装させていくことになるのです。言葉に関しては、自分自身の能力をせっせと磨き、人任せにしてしまうことがないのです。
| 論理性が合理性を生む
このようにアメリカ人たちは、自分の言語能力に磨きをかける中で、どんどん論理的な思考が出来るようになっていくわけです。
ところで、論理的にものごとを突き詰めて考えていくと、結果として最も合理的な結論にたどり着きます。前例主義や習慣や常識に囚われずに、徹底的に論理性でもって突き詰めると、合理的にならざるを得ないのです。
この「論理的思考」から生まれた「合理的結論」の例として、うろ覚えですが、こんな話をどこかで読んだことがあります。ある日本人の武官が、戦後にアメリカの海軍司令部を見学すると、そこには「海図」だけではなく、敵味方の艦船の「模型」が置かれていました。まるで子どもが戦争ごっこをするように模型を動かしながら作戦を決めていた、という米軍のあり方を知ったその武官が「こんな奴らに負けたのか?」とつぶやいたとか…。
作戦とは、非常に高度なものですが、それを「模型」でやってしまう。その方が、複雑な海図や作戦図など用いることなく、誰もが「一目瞭然」で分かってしまう。習慣や常識などの「型」に囚われない、徹底的な「合理性」から生まれる結論です。現に、米海軍では今でもこの方法を続けているそうです。専門家しか分からないような複雑なチャートなどは使わない。幼児でも一目瞭然に分かる方法を採用する。スゴイ国だなぁと唸ってしまいます。おそらく、当時の日本で「模型で作戦を立てる」と言い出したら「何をバカな」と一蹴されたことでしょう(いまだにそんな考え方の人が大勢を占めます)。しかし「何をバカな」的な発想が、この国を残念な結果へと導いてしまったとも言えます。「型」が「合理性」に負けたわけです。
しかし、最近になって日本人の経済活動も「型」から少しはみ出して、「合理性」へと傾きつつあるようです。考え方が少しずつ変わってきているのです。
最近では、「何とかミクス」の効果と喧伝されているように、急激な円安から株価高騰など、実体経済とは違うところで「好景気感」が蔓延していますが、リーマンショック以降の長引く不況下、さらに追い打ちをかけた東日本大震災の影響、加えて歯止めがかからぬ少子化から、縮小し続けていく日本経済には大きな変化が起きています。
かつて日本人は、まず生まれた瞬間から「家族」という傘に守られ、その中でうまく生活していればよく、それは幼稚園、小学校、中学校と年齢が上がっても同じことでした。つまりその「社会」の中でうまく立ち回れば良かったわけです。そして、高校を卒業しても、大学という傘に守られる。これは、学生の不祥事などで大学が謝罪することにも表れていますね。アメリカでは、高校を卒業すれば一人前。自分のことは自分で責任を持たねばなりません。しかし、日本ではその個人が謝罪する前に、その個人の属するグループが本人に代わって謝罪するのです。
そして、就職すれば、大学に変わって「会社」という傘の下に入るわけです。会社に入ると、年功序列に終身雇用。つまりその社会の中でうまく立ち回っていれば、はじき出されることはなく、さらに能力があれば昇進できたのです。ここで重要なのは、能力に応じて昇級できる点ではなく、変なことをしなければずっと雇い続けてくれる点です。こんな素晴らしいことはありません。こんな楽なこともないでしょう。しかし、これはすでに過去の話。昭和の後半は、実に素晴らしい時代だったのです。
ただ、長引く不況から、昭和の頃に学生たちに散々もてはやされた大企業が次々に赤字転落、人員削減、終いには消滅さえしてしまうという今。私たちは、好むと好まざるとに関わらず、また気づいているか否かは別として、そんな平成の時代に生きる住人となってしまったのです。企業は、今までの「型」を捨てて新しい時代へと適応しつつある、つまり徹底的に「合理的」に運営されるようになってきているのです。
雇われる側の学生たちも、時代と共に変化しています。70年代から80年代初頭生まれの、いわゆる「ロストジェネレーション」たちは、「バブル」どころか「景気の良さ」というのを体験したことがありません。企業が自分たちを守ってくれる、などとは初めから考えていないのです。そんな人たちと話しをすると、「今、景気が悪いというのが分からない、これが普通としか感じられない」そうです。私などとは随分物事の見方が違うことに驚かされます。そして、このような世代の人たちが、これからの日本経済の中心的役割を担っていくわけですから、昭和的な発想での「バブリーな」会社運営、または経済活動はしないはずですね。
(しかし、ロストジェネレーションの下の世代の人たちは、これまた趣を異にします。散々バブルの恩恵を受けた世代が、彼らの親なのです。そんなバブル世代の親たちは自分の子どもの進学や就職にあたっても、すでに現実とはかけ離れた「昭和的な発想」を当てはめようとする傾向があるようです。)
| 組織から個へ
「組織を当てにしない世代」が社会の中心を担っていく。それと同時に、SNSの爆発的な進化が社会の構造に変化を与えています。
今やインターネットがあれば何でも出来ると言っても過言ではないでしょう。リアル出版界にコネクションが無くても、自分の頭脳ひとつで、ブログで発信していく。そして、それを本にする。そうして人が集まる。
インターネットの世界では、「トラフィック」が全てです。もちろんコンテンツも必要ですが「いかにたくさんの人がそこを通るか、いかにたくさんの人に関心を持ってもらうか」が重要なのです。そして、人と関心の集まるところにはお金が落ちるのです。
いつ解雇通告されるかと、戦々恐々としつつ日々過ごすのではなく、会社には頼らずさっさと辞めてしまう。私の周りにもそんな人たちが、ここ数年で爆発的に増えています。
そして、その様に生きようと思ったら、必要なのは「発信力」です。しかも、ただ単に発信するだけではなく、確かな論理性に下支えされた発信力が必要となるのです。
これは、インターネット上でビジネスを展開する場合にのみ必要なスキルではありません。企業も、従順な学生よりも即戦力となる学生を求めるようになってきています。企業が学生に求める能力の第一に挙げているのが、専門知識でもなく、問題解決力でもなく、「コミュニケーション能力」である点にも見て取れるのです。
| これから求められる人材
昨今、秋田の国際教養大学が人気だとか。テレビや雑誌でしばしば目にします。東大と肩を並べるような難しさだそうです。(あくまでもセンターの点数を見ると、です。)また、講演会でも「秋田の大学について先生はどう思われますか?」とご質問を受けたりします。私は、この大学が人気を博している現状は、日本の教育の問題点を浮き彫りにしていると考えています。
この大学が人気な理由は、「就職率の高さ」だそうです。つまり企業が、この大学の卒業生を欲しがるわけです。ではなぜ企業は、秋田の片田舎にある大学で、ひと昔前なら4年制大学の最初の2年間で修めた「教養(liberal arts)」を学んだ学生を、それほど欲しがるのでしょうか?
「専門知識」ではなく「教養」の方が役に立つ?もはや大学生に「専門知識」は不要?いやいや、そうではなくこの大学の学生は「英語」が出来るからもてはやされるのだ…。などなど、色々と言われますが、そんなレベルの問題ではなく、企業がこの大学の学生を欲しがる理由は単純明快だと、私は考えます。今日の企業が社員たちに求めるスキル、つまりは既述の「コミュニケーション能力」をこの大学の卒業生たちは身につけているのです。言い換えれば、欧米型の「発する言語能力」を有するグローバル化された学生たちなのです。
残念ながら、現在の日本の学校制度では双子の兄弟のようにペアになっている「クリティカル シンキング」並びに「コミュニケーション能力」を身につけることが出来ません。ところが、この大学へ行くとこの両方を身につけてしまうことが出来るのです。
なぜか?答えは簡単です。和風な聴講型だけではなく、欧米式の発信型の授業が展開されるから。それも外国人の先生や海外からの留学生と一緒に学ぶのです。そして、これでベースを作っておいて、さらに最低1年間の留学が組み込まれています。海外で学ぶ、つまり発信型の授業で自分の思考を掘り下げていくわけです。結果として、この大学の卒業生たちは、「クリティカル シンキング」と同時に「コミュニケーション能力」を身につけていくのです。グローバル化された発信型の学生たち。これが、企業がここの学生を欲しがる理由でしょう。もちろん、同時に英語も身につけますから、こんなありがたいことはありませんね。
しかし、見方を変えれば、これは日本の教育と経済界との関係の歪みを表していると言えるのではないでしょうか。アメリカの学生であれば高校卒業までに、程度の差こそあれ、すでに身につけている「クリティカル シンキング」と「コミュニケーション能力」を、日本の学生たちは大学を卒業している子たちですら身につけられていないということなのです。
そして、企業は学生たちの能力として「専門知識」か「コミュニケーション能力」かを天秤にかけたところ、結果として後者を選ばざるを得ないわけです。理想を言えば「クリティカル シンキング」と「コミュニケーション能力」そして「専門知識」をも身につけている大学卒業生が好ましいはずですが、「専門知識は無くても仕方が無い」というある程度の妥協が企業側で行われているのでしょう。もちろん、その秋田の大学生が専門知識を身につけていないと言っているわけではありません。ただ、大まかに一般化すれば、上のような図式が当てはまるのではないかと考えるのです。
| どんな子に育てますか?
さて、英語を身につけるということとグローバル化。色々な角度から考えてきました。英語と日本語の根本的な違い、日本人と外国人の言語の取り扱い方法の違い、またそれらの学習法など、英語というのは英語だけではなくそれを取り巻く文化のあり方とも密接な関係にあるのです。
そして、豊かになるためには「英語」を身につけるだけではなく、「コミュニケーション能力」が必要であることも分かってきました。また、秋田の国際教養大学を例に、「英語」を使って知識を増やしていく過程で身につけられる「クリティカルシンキング」と「コミュニケーション能力」があれば、未来の選択肢が大幅に広がるということも分かりました。
ただし「クリティカル シンキング」が全てではありません。「コミュニケーション能力」が全てでもありません。知識に裏打ちされないクリティカルシンキングは単なる「へ理屈」ですし、クリティカルシンキングを経ていないコミュニケーション能力は単なる「おべっか」にも繋がります。また、クリティカルシンキングの介在しない知識とコミュニケーション能力は、主張ではなく単なる「引用」に過ぎません。
このように、「知識」だけでも、「クリティカル シンキング」だけでも、「コミュニケーション能力」だけでもダメなのです。
知識と従順さがあれば、そこそこ豊かに生きられた「昭和」は遠くになりにけり…。時は平成です。これからの時代、豊かに生きていくためには、「知識」に下支えされた「クリティカルシンキング」を展開し、それらの裏打ちがある上での「コミュニケーション能力」が求められるのです。
そして、そのような発信の出来る日本人は、今はごくわずかしか存在しません。だから、企業はこぞってそんな人材を求めるのです。そして、そんな人たちには責任ある仕事がどんどん舞い込んできます。そして責任力の高い人間は、会社の中でも収容なポストを占めるようになります。
また、会社勤めをしなくても、このような人たちの下にはたくさんの人々、たくさんの情報が集まります。つまり「トラフィック」が生まれるのです。すると、やはりその世界でも重要な責任のある立場になって行き、人々に求められる人間にならざるを得ないのです。
その全ては、確かな「専門知識」とそれを人に分かりやすく展開する「ロジカル シンキング」とうまく人に伝える「コミュニケーション能力」から生じています。
お子さまが将来豊かに生き抜くために、以上の点を心の隅にでも留め於いて、日々の接し方、もしくは教育方針に活かして頂ければ幸いです。
船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。