パルキッズ通信 特集 | 右脳英語教育, 大学入試, 英会話学校, 英語教育, 読解力育成
2015年04月号特集
Vol.205 | 分ければ分かる
英語・日本語・子育て・教育すべてスッキリ
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
http://palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-1504/
船津洋『分ければ分かる』(株式会社 児童英語研究所、2015年)
早期の―ここでは小学校での英語学習開始以前の―英語教育の賛否の話になると「英語より国語が大切」とか「英語以前にまず国語力」といったご意見が、どこからともなく必ず出て来ます。すると、言葉のマジックにかかったように、大方は何となくそんな意見になびいてしまう…。特に保守的な人たち、つまりいわゆる”常識派”の人たちにその傾向が強いようです。
また「センター試験が無くなる」と聞けば、「一発勝負のセンターでなく、チャンスが増えるからうれしい」とか、「入試の英語よりも使える英語を」といった答申が出れば、「その方がありがたい」等と言った意見を発する学生や、これまたいわゆる”文化人”も少なくありません。
それやこれや、皆さんご自身の意見を持つのは結構なことです。特に、各種アンケート調査に「どちらとも言えない」もしくは「分からない」という選択肢があれば、半数はその答えに丸を付けてしまうような人々で成り立っているお国柄の日本です。自分の意見を持つことはとても大切でしょう。
ただ、その意見ですが、上記のように、あまりにも「雑な」結論にたどり着く人が意外に多いと感じざるを得ません。もちろん、それもひとつの意見ですから、尊重されて然りです。しかし、人ごとであれば、どんなことを言ってもあくまでも対岸の火事ですから、実害は限りなく少ないのですが、これが「我が子の育児」に関わることとなると、話は違います。責任は自分(親)に降り掛かってくるわけですから、雑な結論を導き出したり、それに飛びついたりしてしまうのはいただけません。
例えば、冒頭の意見。「英語より国語」云々を考えてみると、実はこの意見、何の解決にもなっていないことが分かります。細かく見て行きましょう。
まず、我が国では「使える英語」を身につけられる確率が異常に低いという現実があります。また同時に一方では、早期の英語教育が従来の日本式学習法では到底得ることの出来ないレベルの「高い効果」をあげらるという経験的な事実群が存在します。早期英語教育でバイリンガルに育つ子が続々と現れているわけです。
すると、その学習法を我が子の教育にも取り入れようと思い立つ親が出てきます。当然ですね。英語で苦労した、もしくは苦労している我がを、愛する我が子には踏ませたくはありません。次第にその波が広がる。雑誌でも取り上げられ、テレビでも取り上げられる。しかも、文科省までその方向で動き始める。…すると、先ほどの「英語よりも」云々の”ご意見”が登場するわけです。さらには、「そうだそうだ!」と同調する向きも現れる。
そもそも日本人ですから、日本語が第1言語。日本語は大切なコミュニケーションツールです。「日本語が大切」なことなど、改めて言うまでもありません。そんな”アタリマエ”のことは、言われなくても親たちは皆分かっています。その上で、子どもの将来を見るに付け「英語が大切」という議論もあり、どうするか悩んでいるのです。誰も「英語さえ出来れば」「日本語などどうでも良い」といっているわけではありません。日本語と英語を両立させたいから悩んでいるのです。
そんな、日本語と英語教育を両立させたい親にとっては、「英語より日本語が大切である」という意見は、「早期英語教育」のあり方に関する何の意見にもなっていません。
「日本語の方が大切」というのであれば、現在の日本語教育のあり方を考え直せば良い。大賛成です。その上で、「英語は必要ない」というのであれば、英語教育は行わなければ良い話。逆に「英語は必要である」と判断するならば、せっせと英語教育も行えば良いのです。簡単な話です。その議論が、なぜ「英語より日本語が大切である」というような、変な結論に落ち着いてしまうのでしょうか。
これは日本人の思考方法によく見られることですが、質の異なるものを同じ土俵に乗せて、ああだこうだの議論を楽しむ風があるようです。「仕事か家庭か」とか「お金か愛か」など本来比較対象ではないもの、同じ天秤に乗せることのできない物事を比較する、といった不毛な議論が成立してしまうのです。
| 分ければ分かる
ひとつの事柄には、いろいろな要素が複雑に絡み合っています。それをごちゃごちゃのままに、どんな要素がそこにあるのかを吟味せずに処理しようとすると、このようなことが起こってしまいます。
解決方法はいたって簡単です。「分けて」考えれば良いのです。絡み合っている要素をひも解いて、どんな要素でその問題が成立しているのか、まずはバラバラに分解してみるのです。
例えば、既述の大学入試センター試験のあり方をバラバラにして考えてみましょう。
まず、センター試験の影響を受けるのは誰でしょうか。センター試験の結果が関係するのは、国公立大学へ進学する場合です。きわめて限定的に一部私立大学の「センター利用」という枠もありますが、私立大学へ進学する学生は一般入試(センター試験とは関係なく各大学が主催する入試)を受けるのが一般的ですので、センター試験制度の改変はそんな学生にとってはあまり関係のない話です。割合で見てみると、新入生65万人のうち50万人が私立大学、残りの15万人が国公立大学へ進学するので、75%を占める私立進学組の学生たちには、あまり関係ないことと言えます。
また、国公立大学へ進学する学生15万人のうち、東大・京大などの旧帝大や、千葉大・金沢大などの旧六大、また一橋・東工大をはじめとする超難関大学へ進学する優秀な学生たちの数は、ざっと5万人です。
そしてこのような優秀な学生たちは、高校2年生の段階でセンターレベルの問題では満点を取れるほどの学力を持っているので、センターが有ろうが無かろうが、方式が変更になろうが、あまり影響を受けません。つまり、センター試験のあり方が変わることで大きな影響を受けるのは、新入生65万人のうち、私立の50万人と超難関大レベルの5万人の併せて55万人を差し引いた残りの10万人、割合でいえば15%の受験生だけという計算になります。
センター変革に意見するのであれば、まずは我が子がその比較的少数派の15%、つまり地元の国公立大への進学者に該当するのかどうかを見極めてからの方が賢明かもしれませんね。
ついでに「使える英語」に関して書いておきましょう。センター英語で満点が取れるレベルは、英検でいえば準1級の問題で8割取れる程度、TOEICであれば800点くらいのレベルです。また、同じく早稲田大・慶應大の英語の入試問題であれば7割程度、得点できるレベルです。この意味においては、もし早慶レベルの英語で8割得点できるのであれば、その学生は余裕で英検準1級を取得できる実力者、相当の英語の運用力が有ると考えて良いでしょう。つまり、学校の勉強でそこそこ”使える英語力”を身につけられたことになります。
パルキッズ通信の2014年12月号でも触れましたが、学校教育の場で現在行われている「使える英語」云々の議論に関しても、分けて考えればより分かりやすくなります。大学へ進学する者には、大学入試レベルの英語攻略を目標とした授業を行い、進学の意思のない者には、日常のちょっとした会話や町で見かけた外国人に簡単な道案内ができる程度の、より実用的な英語力を目標とした授業を行うALTの採用など、やり方によっては公教育の場でもこれは実現可能でしょう。
| 「育児」も分けると見えてくる
少しややこしい話を書いて参りましたが、実は「分けて考えれば分かる」ことは、複雑な問題に限りません。普段何気なく口にしている言葉も、分けて考える””に乗せると本質が見えてきます。
例えば、良く耳にする「俺の子だから」とか「私の子だからねぇ」などの発言。子どもと自分を一体視していることによって、このような発言になります。また、自らの教育理念の欠如を誤摩化す場合にもこのような発言が行われます。「所詮、蛙の子は蛙」という、あれですね。
この説は、とある人Aさんの子は、親であるAさん以上の能力を発揮できるようには育たない、ということです。この説が正しければ、子は親以上に育つことが無いことになってしまいます。つまり人類は発展しないのです。子が、わずかでも親より良く育つ、これをくり返して来たことによって、人類は(ことの善し悪しは別として)現在の生活を得るに至ったのですから、この説は正しくないことになります。
また、こんなことを言う人もいます。「勉強より大切なことがある」とか、さらに興が乗ってくると「勉強なんか大切ではない」などという台詞です。当然、勉強より大切なことは山ほどあります。しかし、これも分けてみると、より本質に迫ることができます。
まず「勉強」という言葉。これを2つに分けてみると、学生時代に体験する「学校での勉強」と日常生活や社会に出ることによって日々学ぶ「社会での勉強」とも言えるでしょう。
社会に出てから、日々学んで行くことは、会社に入っても、昇進しても、親になっても、退職しても…日々勉強であることには変わらないはずです。従って、この「社会における勉強が大切である」ことは、批判されることは無いでしょう。つまり「勉強なんか…」という場合には、おそらく「学校での勉強」を指していると思われます。すると「勉強より大切なこと…」発言の本意は、「学校での勉強より社会での勉強の方が大切である」ということだと考えられます。
学校の勉強だけではどうにもならず、社会に出ていろいろな人生経験を積んで行くことが大切なのは”アタリマエ”過ぎて言うまでもありません。では、だからといって「学校の勉強なんかしなくても良い」のでしょうか?
人は、知識として知らないことは認知できません。知らないことに関しての情報が視野に入ったとしても、意識のレベルになかなかあがってきません。見えてはいるけれど、存在を認知できないのです。
例えば、その職業の存在を知らない人にとっては、「コンシェルジュ」はホテルのロビーで机に向かって座っている人に過ぎませんし、知識の無い人にとっては、古代遺跡もただの丘や水たまりや古くさい建物に過ぎません。町中にあふれる道路標識も、運転免許を持っていない人にとっては、幾何学的図柄の印刷してある看板に過ぎないのです。そして、それら、世の中にあふれている物事に関する「知識の入り口」が、「学校の勉強」であると言えるでしょう。
いわゆる「学校の勉強」は万人向けのものですから、多少の得意・不得意はあったとしても、きちんと取り組めば理解できる程度の内容になっています。要するに、特に優秀な頭脳をもった子でなくても、ちょっと頑張れば付いて行けるようになっているのです。少しキツイ物言いになりますが、そんなごく基本的な学校の勉強にすらしっかり取り組めない子に、彼らが社会に出た時、どんなことができるのでしょうか?すでに構造が高度に複雑化している社会において、彼らの役割は限定的にならざるを得ないのです。
また別の角度から見れば、「学生の本分は学問である」ことは異論が無いでしょう。親は、屋根と食事と安定した生活を子どもに保障しています。親たちは、必死の思いでそれを子どもたちに提供しているのです。ではそれを受ける側の子どもたちは、何をすべきなのか?もちろん、遊んでいれば良いわけはなく、来るべき「社会の一員となる日」を目指して、勉学に励むのが彼らの仕事でしょう。
| 英語も分ける
では、英語教育に目を向けてみましょう。英語教育も分けて考えると、景色が変わります。
よく耳にするのが「楽しく学ぶ」学習法です。さて、これを掘り下げるとどうなのでしょうか。
まず、英語教育のゴールは「子どもたちを楽しませる」ことではなく、「英語を身につけさせること」であるのは言うまでもありません。仮に「楽しくないけど英語が身につく」学習法と「楽しいけど英語が身につかない」学習法があった場合、どちらを選択するのが論理的でしょうか?前者であることは言う間でもありませんね。しかし、残念なことに、多くの保護者がほぼ無意識のうちに後者を選んでいるのが現状です。
楽しく学習を行うことは大いに結構なことですが、果たして必ずしも楽しい必要があるのでしょうか?
パルキッズでの学習法は、子どもたちが母語である日本語を身につけるかのように、英語を身につけさせていく方法です。我々が中学校以降に受けて来た英語教育とは本質的に異なり、子どもたちが無意識のうちに英語を身につけられるようにプログラムされています。学習自体が無意識に行われるのですから、「楽しい/楽しくない」とはまったく別の次元の話です。
具体的には、「子どもたちが日本語を身につける経緯」になぞらえて考えてみると、分かりやすくなります。0歳から3歳の間に、幼児たちは日本語を身につけますが、その間、彼らは日本語を「楽しみながら」学習しているのでしょうか?もしくは、積極的に意識して日本語を学ぼうとしているのでしょうか?そんなことはありませんね。彼らはまったく無意識のうちに、楽しむわけでもなく、気付けば身の回りにある言語(=日本語)を身につけてしまっているのです。
| なぜ英会話?
まだまだ、分けて考えるべきことはあります。英会話、留学、絵本の暗唱、フラッシュカード、フォニックス、プリント学習のあり方…。これらも”そもそも”何を目的に行われる取り組みなのか、この点に着目することによって、本質がくっきりと見えてきます。
順に見て参りましょう。
まず英会話。英語を学ぼうと思うと、なぜ英会話に飛びついてしまうのでしょうか。友人や講座の生徒たちとの雑談や、保護者たちとの面談の内容から察すると、以下のような理由が見えてきます。どうやら「学校教育で読み書きはできるようになる」しかし「リスニングやスピーキングの機会が無い」ので「自分は英会話が苦手」である。そこで「英会話を学ぶ」という結論に至る思考の流れがあるようです。しかし、これには根底から誤りがあるのですが、そこに気が付く人は意外と少ないのでしょう。
事実誤認はいたって明白です。最初の「自分は読み書きはできる」という点がまず間違い。『ハリーポッター』でも何でもかまいません、試しに英語圏のヤングアダルトたち(10代後半~)の読むような小説を読んでみてください。スラスラ読み進めるでしょうか?ヤングアダルトの読む程度の本であれば、それほど複雑な内容ではありませんし、また小説ならイメージしやすいように書かれているので、夢中で読み進めれば、丸1日もあれば1冊読み切ってしまうことでしょう。しかし、現実は…?おそらく、多くの方は、数ページほど読んで投げ出してしまうのではないでしょうか。つまり、「英会話」を習う根拠となっている「読み書きはできる」点からして間違えているのです。
これは、講演会や本誌上でも繰り返し紹介していることですが、「英語を理解できる」ということに関して、多くの日本人は根本的な誤解をしています。
「昨日の晩ご飯は何を食べましたか?」と耳にすれば、皆さんの頭の中には「昨日の夕食」のイメージが浮かぶはずです。これが「言語の理解」です。つまり、英語を理解できるということは、”What did you have for dinner last night?” と耳にした次の瞬間には「昨日の夕食」が頭に思い浮かぶということです。しかし、多くの日本人たちが “What did you have for dinner last night?” と問われれば、それを「昨日の晩ご飯は何を…」と、日本語に訳せることを英語が理解できることだと勘違いしているのです。
要するに、「英語が読める」ということは、ハリーポッターを英語で読みながら、日本語に訳すという過程を経ずに、ダイレクトに文章がイメージ化できるということです。日本語で小説を読んでいる時と同じように、文字が頭の中で音声化され、それがイメージとなることが「言葉を理解する」ということの本質なのです。
そして、このように英語を理解する回路を身につけたければ、幼児が言葉を身につける時に体験するような、日常的な卑近な表現を繰り返し頭に入力し続けて、英文をイメージ化する回路を身につけることです。ただ、ここで問題なのは「大人の脳は、音声英語を幼児期のようには受け付けない」点でしょう。英語を聞く練習をして聞き取れるようになれるのであれば、毎日のように洋楽を聞いている音楽家たちや、毎日洋画を観ているような人たちは、とうに英語を聞き取れるようになっているはずです。しかし、そのような話は聞いたことがありません。繰り返しますが、大人の脳は英語の音を簡単には受け付けてくれません。従って、大量の英語を入力したいのであれば、耳からではなく目から、つまり大量に読むことによって達成する以外ありません。
これは留学にも通じます。留学すると大量の英語を耳にするから、英語の回路が身につくと思っている方が多いのですが、実はそれは幼児期までの話であって、学齢期以降の児童・生徒が留学によって英語を身につけるのは、リスニングからではなく大量のリーディングから達成されていることです。
| フラッシュカード・絵本の暗唱
現行のパルキッズには含まれていませんが、20年前の第1世代のパルキッズには、紙のフラッシュカードがセットされていました。当時は、親がカードをめくって「フラッシュする」ことが普通に行われていたのです。
ところが、指導を進めるうちに、ある問題が明らかになりました。教室の先生とは違って、親御さんたちはフラッシュカードの達人でも名人でもありません。テンポも悪く、めくり方の問題でよく絵柄が見えなかったり、落としたりしてしまいます。これは仕方がありません。ところが、そんなフラッシュカードを子どもたちは見なくなってしまうのです。フラッシュカードは、もともとプロの教師がテンポ良くめくっても見てくれないことが多いものですから、ご家庭でのフラッシュカードでは子どもたちが集中できないのも無理のないことです。
しかし、一生懸命にカードをめくっている親からすれば、フラッシュカードを見てくれない我が子が歯がゆくて仕方が無いのです。そこで「ちゃんと見てね」などの言葉をかけます。「見てね」と言われればしばらくはつきあってくれますが、子どもはまた次第に目を背け始めます。そして、これを繰り返すうちに、親の根気が果ててしまうのです。まずフラッシュカードをあきらめる、すると、教材全般に嫌気がさしてきて、もっとも大切な「音の環境づくり」まで中断してしまうのです。
これでは本末転倒です。本来重要なのは、フラッシュカードよりも音の環境づくりなのですから、枝葉のフラッシュカードに影響されて、そもそもの英語教育自体がストップしてしまうことは何としても避けなくてはいけません。そこで、第2世代のパルキッズでは、フラッシュカードをビデオ化しました。そして親御さんたちをフラッシュカードのくびきから解放することにより、学習の継続率が向上したのです。
絵本の暗唱に関しても、同じようなことが言えます。絵本の暗唱の役割とは英語学習の中でもっとも重要な「かけ流しによる英語の回路作り」の、次の段階である「読解力の育成」です。しかも、絵本の暗唱は「読解力の育成」における唯一の方法ではなく、数ある方法のうちのひとつに過ぎません。
読解力の育成には、もっとも自然で無意識の学習である「絵本の暗唱」、次いで、直感的に単語を映像として認識させる「サイトワーズ」の学習法、さらに音の学習である「フォニックス」や「ライミング」、そしてかなり本人の自覚を要する「音読」などの方法があります。子どもの年齢や発達段階、または性別や兄弟の有無によって、1人1人に最適な学習法があります。絵本の暗唱が苦手な子がいれば、プリント学習が得意な子もいます。また発達が進めば、暗唱は自然と音読へと変わって行きます。
このように絵本の暗唱というのは、読解力の育成方法のひとつに過ぎないのですが、既述のフラッシュカードと同様に、絵本の暗唱が上手くいかないことによって、読解力育成の取り組み自体が中断してしまうことが起こりがちです。さらには、それを発端に英語教育全体が中断してしまう…、そんなことまで起こりうるのです。これらはひとえに、分けて考えることをせずに、フラッシュカードもかけ流しも絵本の暗唱もフォニックスも…全部ひとまとめに「英語教育」と考えてしまうところに起因します。
「分ければ分かる」。英語教育や育児、何でもかまいません。悩むことがあった場合には、闇雲に考えるのではなく、一歩引いてその事象と距離を置いてみましょう。そして、客観的に現象を分解していって、どんな要素が絡まっているのかをひも解いてみましょう。大抵のことはこのように分析するだけで、問題点がくっきりしてくるのです。もしかすると、意外や意外、目の前にあった大問題は、まるでタマネギのように、剥いて行ったら中には何も残らなかった…等ということになるかもしれません。
分からなくなったら分けてみる。何かのヒントになれば、幸いです。
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児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。
船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。