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2015年09月号特集

Vol.210 | 「考える子」を育てていますか?

子どもの優秀さを決める「親の語りかけ」とは

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
http://palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-1509/
船津洋『「考える子」を育てていますか?』(株式会社 児童英語研究所、2015年)


| 少し考えてみましょう

 「優秀な子」ってどんな子なのでしょうか?勉強が出来る子、スポーツが出来る子、人付き合いの上手な子、気の利く子、器用な子などなど、ひと口に「優秀」と言っても、具体的にどうなの?となると定義が難しいところです。優秀とは「人より際立って優れていること」ですので、ありとあらゆるジャンルに優秀な子はいるわけです。
 たとえば、学問の世界では平凡な子でも、楽器演奏では優秀であったり、また、芸術的なセンスはゼロでも運動能力は人より図抜けて優秀だったり、はたまた、数学はからっきしだめでも文章を書かせると飛び抜けてその才能を発揮したり。優秀な子とは、それを判断する立ち位置や、見る方向によって随分と変わってくるものです。
 つまり、特定の分野で人より優れていることを優秀と呼ぶのであれば、意外と世の中優秀な子で溢れているのかもしれません。
 しかし、一般的に「あの子は優秀だなぁ」と言うとき、上記のように特定の分野に優れていることはもちろん、それ以外にもいくつかの要素が含まれているものです。
 勉強が出来ても人付き合いを極端に嫌ったり、スポーツが出来ても底意地が悪かったり、楽器演奏は抜群でも日常のことは何ひとつ出来なかったりした場合には、手放しで「あの子は優秀だなぁ」とは感じないのです。ある子が特定のことしか出来ない場合、その分野ではいかに優れた能力を発揮する子でも、残念ながら「数学ばか」とか「ギターばか」などと呼ばれてしまうのです。手放しで賞賛されることは少ないでしょう。

| ○○だけではダメ

 たとえば、勉強が良く出来る子について考えてみましょう。勉強が出来るということは、たくさんの知識を持っているということです。たくさんの知識があるということは、様々な局面で問題の原因を探り出し、解決法を見つける能力も人より優れています。勉強が出来るだけではなく、それを実社会で応用できることによって、初めて優秀と評価されるのです。
 また、スポーツの世界では、当然ほかの選手より優れていることが必要ですが、メディアの極端に発達した今日では、競技以外の部分まで評価されてしまいます。たとえば、勝利のインタビューでも、独りよがりな発言ではなく、型どおりではあっても「自分の努力より周囲のサポートのおかげ」「自らの達成感より同胞の幸せ」などの言葉を発する知恵がなければ、これまた優秀なアスリートとは評価されないようです。もっとも、この点に関しては随分とゆがんでいるなぁ、との感慨を禁じ得ませんが。
 また、芸術の世界でも、単なる「ギターだけ際立って上手な変わり者」ではなく、「人々に夢と希望を与えるような人物像」とのペアでもって、初めて優秀であると評価されるのです。
 少々気の毒な話ですが、特定のことに優秀な子は、人より目立つ分だけ、その他の要素にまで優秀さが求められてしまいます。卑俗な言い方になりますが、「優秀な子」には、ひとつの事に優れている上に、人との関わりをそつなくこなせることが必須条件のようです。


| 優秀でなくてはいけない

 さて、少々斜に構えた物言いとなってしまいましたが、それでも優秀な子は存在するわけです。
 「一億層中流」だった古き良き昭和の時代には、「わんぱくでも良い、たくましく育って欲しい」などと平気で言われていました。いたずらや悪さをして人を困らせるような子でも、たくましければ良かったわけです。今日こんな教育方針で子育てをしていたら、モンスターペアレンツと呼ばれるか、下手をすれば裁判沙汰になるかもしれません。
 つまり、それなりに経済成長を続けていた古き良き時代には、勉強が出来なくてもどうにかなったのです。しかし、1990年代からの「失われた20年」を通して大量に世に送り出された、いわゆる「ロストジェネレーション」たちが、社会の中核を担うようになってくると、子育て観も変化していきます。
 古き良き昭和アタマは、こう考えます。「どこでも良いから大学を出れば、就職できるだろうし、そこで頑張れば人並み以上の人生を送れるはずだ」と。
 しかし、現実は異なります。何度か本誌でも触れていますが、大学を出ると「不完全雇用(※)」が待ち構えています。この問題は、欧米ではすでに10年以上前から社会問題となっていますが、日本の社会はこの問題に気づいていないのか、それとも敢えて隠したいのか、世間には知られていません。(※不完全雇用:学位保持者がその学位を全く必要としない職業、飲食の提供や肉体労働などに就労すること。パルキッズ通信2015年7月号にて特集。)
 ただ、不完全雇用は厳然とそこに存在します。欧米では学位保持者の3人に1人が、学位を必要としない低賃金労働をしているのです。日本では、これを産業構造や労働市場の変化(ここ30年で製造業就労者が半分になり、サービス産業就労者が5割増した)として捉えず、突然「ブラック企業」なるものが現れたことが元凶かのように報道されています。もちろん、労働基準法に違反するような条件での労働の強制は問題外ですが、同時に、自分の能力に見合った仕事にありつけない学生が多いのは事実です。
 ちなみに、これは私感ですが、「ブラック企業が諸悪の根源」的な発想の背景には、バブル経験者の親たちによる「昭和的な」、言ってしまえば「暢気な」子育て観があるように思えて仕方がありません。当時は「社会」に属していればどうにかなったのですが、今日では社会、つまり企業やお国に、そんな余裕がなくなってしまいました。そして、突然のように「自分の力で生き抜け!」的な社会になってしまったのです。その変化に気付かず育児をしてきたツケが、今の若者たちに不安定雇用として回ってきたのかもしれません。
 そして、景気の良かった時代を知らない「ロストジェネレーション」たちは、そんな現実を横目に見ながら、人任せ・社会任せの暢気な子育てではなく、「厳しい現実を見据えた教育」を我が子に施し始めているのです。


| 優秀さと英語の関係

 さて、それでは優秀な子とはどんな子なのでしょうか。もう少し掘り下げてみましょう。
 グローバル化の進む今日、英語が出来れば優秀であると言えます。これは確かに本当です。英語が出来れば、就職のチャンスは増えます。それどころか、英語が出来なければ、他の分野がどれほど優れていても、まるで相手にしてくれない企業が増えています。つまり、英語が出来ることは、優秀であることのひとつの鍵であることに間違いはありません。
 しかし、英語が出来るだけ、ではどうにもなりません。
 たとえば、英語が出来る人の方が生涯賃金が高いのですが、それはあくまでも英語にだけ焦点を当てているのであって、「英語以外の要素」が加味されていません。 これまた様々な統計を見てきた上での私感ですが、どうやら「英語が出来るから」ではなく、「専門的な知識や技術を持っていて、その上で英語が出来るから」高い年収を得られるように思えます。
 もっとも、年収ですべてが測れるわけではありませんが、優秀であれば年収も高いというのは常識的な考え方だと思いますので、その点においては、「英語」が優秀な人になるための関門のひとつであることに間違いはありません。
 逆に、「英語力が極端に高い」場合にはかえって年収が落ちるということも、同じく統計から見て取れます。 おそらく「英語で食べていく」と考えた人たちなのかもしれません。確かに、日本人にとっての「英語」は、残念ながら未だに特殊技能のひとつです。しかし現実は厳しいもの。英語だけでは食べられないのです。逆に英語しか出来ない人たちは、使い捨てにされてしまうことすらあるようです。
 英語が出来れば万事うまくいく、というわけではないのです。


| 考えさせる

 「自分の専門分野において優秀であること」がまず重要です。その上で、英語が出来れば、さらに優秀と判断される。さらに、冒頭に書いた「人の世にそつなく生きる」知恵があれば、とりあえず優秀な人材のできあがり。…と、まぁ、こんなところでしょうか。
 ひとまず「そつなく生きる」知恵はよけておき、「英語力を身につけさせる」のはパルキッズに任せるとして、専門分野で優秀に育てるにはどうしたらよいのでしょうか。
 過去に「知識」と「知恵」の関係について書いたことがあります。どちらが大切かと問われれば、迷うことなく「知識」でしょう。
 知識も知恵もなければ、どうにもなりません。また、知識があっても知恵がないのは、少し要領の悪そうな印象です。しかし、「知識の裏打ちも無く知恵だけが回る」のは、一見賢そうに見えて、その浅薄さはあっという間に露呈するでしょう。それならば、「さほど知恵は回らなくても知識は豊富な物知りである」という方が堅実です。もちろん、知識も知恵もあるのが最善であることは言うまでもありませんが。  「知識」を獲得するためには、大量の情報に接する以外ありません。しかし、大量の情報に接してもすべてを丸暗記するのは不可能ですし、また、単に情報が頭の中にあるだけでは、何の役にも立ちません。それらを系統立てて整理整頓するのが「知恵」の力です。そして、その知恵の力を身につけるのに必要なのは「思考」なのです。
 つまり考えること。古くはデカルトが “Cogito ergo sum”(考える故に私は存在する)と述べたように、やはり「人間」と「考えること」は切っても切れない関係なのでしょう。
 しかし、考える作業というのは実に辛いものです。楽しいといえば楽しいのですが、考える作業ほど疲れるものはありません。そこで、考えることを避けるために「思考の単純化」が行われます。
 たとえば、成功者を見習ってみようとするとき、単純化が得意な人は次のように考えるかもしれません。世の成功者たちに共通しているのは「頑張った」ことだ、だから成功するためにはとにかく頑張れば良いのだ、と。もちろん現実に成功している人には、専門的な知識や優れた技術や、ずば抜けたセンスなどの重要な要素があるのですが、そんなことは良くわからないし、面倒なので考えない…。これはとても楽です。
 余談ですが、航空自衛隊のパイロットだった友人たちとの雑談の中で、「アメリカの飛行機乗りは航空力学で飛行機を飛ばすが、自衛官たちは気合い(あるいは根性だったか…失念しました)で飛ばす」といった趣旨の話を聞いて、得心いった覚えがあります。もちろん、彼らは力学も何もかもすべてわかった上で、「気合い」と言っているのですが、話を単純化すると何やら不思議な「深み」を感じさせます。
 しかし、まるで思考を経ない単純化、つまり「頑張れば・成功する」的な思考停止は、人として生まれた以上、避けたいものです。
 とはいえ、やはり人は単純化を好むものです。そんな中で、ひとり思考を深める人たち・考える人たちが、物事の本質を見極め、問題を発見し、解決策を見いだすことが出来るのでしょう。
 ねじり鉢巻きで、ひたすら頑張って徹夜勉強を続けるのではなく、どのように勉強すれば、短時間で効率よく高い成果を上げられるのか、そんなことを考えている人の方が、結局成功してしまうのです。


| なぜ?を考えさせる

 物事がうまくいっているときには、人は考えないもので、これはある程度仕方がないことかもしれません(本来ならば、うまくいっているときほど考えなくてはいけないのですけどね)。問題なのは、うまくいかないときです。ここで、適当に答えを出してしまってはいけません。なぜ失敗したのか、を徹底的に考えさせるのです。
 夏休みの自由研究ひとつ取ってみても、いろいろなことが考えられます。「とりあえず終わったからいいや」という向きは別として、自由研究のコンテストに出品するほど頑張ったものの、入賞を逃してしまったとしたら、どうしますか?
 そんな時、「残念だった」のは当たり前です。ここで「なぜ入賞できなかったのか」を考えることがポイントです。「頑張りが足りなかった」などという精神論的な答えではなく、子ども自身に、冷静に分析させます。入賞作品はどこが良かったのか?自分の作品はそれらに比べて何が足りなかったのか?そんなことを考えさせてみるのです。そして自分の作品の欠点や改良点を冷静に見つめてみる。そんな「考える」習慣を身につけさせるのです。
 「そんなこと大変だ!」と感じるかもしれませんが、意外と簡単です。すでにパルキッズ通信2015年6月号でも触れているので、詳細はそちらに譲るとして、日常的な会話の中で、親が会話を掘り下げていくような語りかけをすることによって、子どもの考える力は身についていきます。言ってしまえば、「親の語りかけ」が子どもの「考える力」に限りなく大きな影響を与えるのです。
 勉強しかり、スポーツしかり、人付き合いしかり、およそ何事かを成し遂げたければ、この「考える力」という、人間に平等に与えられた能力をフルに活用せざるを得ません。それは時に辛い作業ですが、考えることを習慣化できた人たちだけが、次々と目標をクリアし困難を克服していくことが出来るのです。
 このタイプの人間は、短絡的に落ち込んだり、簡単にくじけたりすることがありません。粘り強く成功への道を探り続ける根気があります。いかがでしょうか。そんな人たちが優秀な人たちだとは思いませんか。


| 人文科学改変論

 文部科学省は、国立大学をG(グローバル)型大学と、L(ローカル)型大学に分け、L型大学にはある意味「職業訓練校」的な性格を持たせようと考えているようです。つまり、実社会との関係がはっきりしない学問を統廃合して、より実社会で役立つスキルを身につけさせようという考え方です。
 これは一見すると、ごもっともな意見に見えます。しかし、人文科学のような直接実社会とは関係ない学問を切り捨ててしまう印象をぬぐい去ることが出来ません。
 確かに、今の学生で、新しい時代に即した技術を身につけているものは少数です。たとえば、ここ十数年で極端に進化してしまったICT(Information and Communication Technology)や、CS(コンピュータサイエンス)の技術は、社会に出ればどんな職種であっても、無関係ではいられません。そんな重要なICT、CSの技術ですが、大学では、特定の学部を除いてこれらを教えてくれないのです。もし、選択科目にあったとしても、コンピュータは苦手だという文系学生は手を出さないでしょう。これについては、大学が改革していかなくてはいけないことは言うまでもなく、学生自身も自覚しなくてはならないことです。もう昭和ではないのです。
 たとえば、ハーバード大学では “CS50” という、オンラインとオンキャンパスで受講可能な、コンピュータプログラムの入門(とはいえかなりハードな)コースを用意しています。毎年数百名が受講する人気講座で、数百名の講師たちが受講生をバックアップします。日本も文系学部の改変以前にこのような取り組みを行えば、もっと簡単に社会適応性の高い学生を育てられるのかもしれません。
 「考える」ことは、高等教育の現場で学生たちが身につける最大の「能力」でしょう。そして、それはどんな学問を通してでも行えます。しかし、高度に抽象的な思考を必要とされる人文科学の分野が、最良の「考える」場であることも間違いありません。それを統廃合するという流れは、それこそ、よくよく「考え」なくてはならない問題でしょう。
 夏休みも終わり、2学期です。これからはネジを締めて日々の生活に戻るとともに、子どもの将来のために「英語」学習、そして「考える」習慣づけをしっかりと行って参りましょう。

今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

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