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2016年10月号特集

Vol.223 | 船津流「育児論」

区別すべし、そして「親ばか」であれ!

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
http://palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-1610/
船津洋『船津流「育児論」』(株式会社 児童英語研究所、2016年)


特集イメージ1 「立木を見ると書いて『親』と読む。」確かに、そのように書いてみると「親」という字になります。なるほど、親とは木が育ってくのを見続けるような存在なのかもしれません。都会住まいで木を育てたことがないので、想像でしかものが言えませんが、木などは放っておいても育つように思います。確かに、若木のうちには世話もいるでしょうし、害虫や病気から守ることも必要でしょう。しかし、森に茂る木々に思いを馳せてみれば、木などはそもそも放っておいても育つものでしょう。そのように考えれば、冒頭の「立木を…」は「親がなくても子は育つ」と通底している、生殖から出産までは別として、育児における親の参画の意義を低く見積もった物言いとも理解できます。
 しかし、この言葉は同時に、一本の木にキチンと手をかけて大切にしつつ、その木のありよう、個々の特性を矯めることなく、のびのびと育てるが如く育児するのが親である、と理解することもできます。放っておいても子は育つと示唆しつつ、同時に、その性質を歪めることなくすくすく伸ばせ、というわけです。なるほどうまいことを言うものです。
 そのように、子どもを親とは切り離した存在として距離を持つ育児観もあれば、他方、「イクメン」に代表されるように父親のより積極的な育児参画が求められる昨今、もっと子どもと近づいた育児もひとつの型を為してきているようです。また、これは母親にありがちですが、我が子を自分の延長とする感覚から抜け出せないケースもしばしば見受けられます。息子がその対象になれば、いつまでも子離れ・親離れのできない母子になり、娘が対象なら、母親自身を娘に投影する母子関係になるのかもしれません。
 これらは無数にある育児パターンのほんの一例に過ぎませんが、このように親と子どもとの距離感は親子において様々です。もちろんどれが正しくて、何が間違えている、と言うことはできません。ただ、育児において、少なくとも明らかに「しない方が良いこと」はあります。逆に明らかに「した方が良いこと」もあります。
 私事ですが、今春長男が修士課程を終え就職しました。また、先日次男が希望の大学院の研究コースに合格しました。2人とも学士は私立大学ですが、有り難いことに修士は国立大学に進んでくれました(次男は来春からですが)。おかげで、2人分の大学院の学費に関しては、それぞれ2年分で合計500万円浮かすことができました。(といっても、浮いた分は私の学費に消えていくことになりますが。)また、下の子も進学する大学院や彼の専攻の特徴からして、上の子同様に就職にはそれほど苦労することはないと思われます。そんなことから、私の育児も一段落ついた感があります。
 高校を卒業したらとか、二十歳を過ぎたらとか、就職したら、などなど、世間での「育児の終了」の定義はそれぞれでしょう。しかし、少なくとも私の感覚では未だ我が育児は終了していません。ただ、繰り返しますが、一服付いた感じはあるのです。
 そこで、今回はいつもと趣向を変えて、私の育児観、何をして何をしなかったかを書いてみようと思います。最近、言語学系の窮屈な話題が多かったので、たまには他人の育児観を見てひと休み入れていただければと思います。幾分でもご参考になれば幸いです。


| その一、まずは区別する。

特集イメージ2 私は「区別する」ことは、育児に限らずあらゆる事象にあたる姿勢と心得ています。なぜなら物事にはいろいろな側面からの様々な尺度があり、それをごちゃ混ぜにしていると、なかなか物事の本質が見えてこないからです。ひとつひとつ仕分けて区別していくと、一見複雑に見える事象も意外に単純な様相を呈することが間々あります。
 たとえば「平等」という言葉、地位や身分などに関わらず人間としての価値は皆同じという意味ですが、兄弟を平等に扱うとどうなるのでしょうか。我が家は3歳違いの兄弟ですが、もちろん平等に扱って来ましたし、現在もそのようにしています。差別などはしません。少なくともしていないつもりです。そんな考え方の父親として、私はたとえばこんなことをします。長男が4歳の時、次男は1歳。おやつをあげるとき、もちろん長男の分を多くします。これが平等だと考えるのです。
 これを差別と受け取る向きもあるかもしれません。しかし、4歳と1歳では身体の大きさも違えば、運動量も食事の量も違います。おやつの量が違うのも必定ではないでしょうか。もっとも、我が家の長男は小柄で小食、一方の次男は大柄でよく食べる方だったので、自然とおやつの量も一緒になっていきましたが。それどころか、次男はなぜかグルメで食べ物の美味しい部位をよく心得ていました。たとえば皿に山盛りのイチゴが出てくれば、真っ先に次男がやってきてイチゴを食べ始めます。しかも、葉や茎に近い部位ではなく、先っぽの甘い部分だけを食い散らかしてしまうのです。遅れてやってきた長男は、次男に囓られ先端部分が欠損したイチゴの山を目の前に、呆然とし、悲し泣きの目に遭うのです。
 すぐに食卓に来ない長男にも問題はあるし、先っぽだけ食べてしまう次男にも問題はあるのでしょうけれども、親としては笑って見守るしかありません。結果として、以上のようなことが起こることは間々ありましたが、それは長男には教訓として身に染みたはずでしょう。そして、このような長男がおやつの争奪合戦に負けるようなケースを除けば、長男と次男には食物に限らず与える質・量ともに区別してきたつもりなのです。
 また、長男を優先することもしてきました。これも不平等を避けるためです。こんなことを書くと、支離滅裂な印象を受けるかもしれませんが、ちゃんと理由はあります。長男は次男が生まれるまでの間は一人っ子で、両親の愛情を一身に浴びて育ちました。しかし、次男の誕生で、少なくとも母親の手は次男の方に厚くなります。誰に責任があるわけではないのですが、結果として長男は「母親を奪われた」ことになるのです。一方の次男はといえば、そのまま末っ子になってしまったので、英語で言えば一家の ‘baby boy’ として甘々に扱われ続けます。つまり、長男の方が相対的に(絶対的ではなく)愛情の欠乏を感じがちなのです。そんな理由で、シーンごとに長男を優先してきました。


| 大人は大人、子どもは子ども

特集イメージ3 また、区別するといえば、兄弟を区別するだけでなく(妙な言い方ですが)親子も区別してきました。私は仕事柄、比較的時間が自由になることから、特に子どもたちが小さい頃には、可能な限り日常を家で過ごしました。夕食の準備なども、特に役割分担という意識もなく自然に行いました。その中で心がけたのは、子どものためにもう一品作るくらいなら、親に一品増やすことです。畢竟、酒のつまみに偏ってはおりましたが。
 そもそも、子どもと親は人格としては平等ですが、社会的な役割の点から見れば、平等とはとても言えません。もちろん、親が優先であることは変えようがありません。まず親が健康に社会生活を送れてこそ、育児も健全になろうというものではないでしょうか。それどころか、子どもを優先にしていると、命に関わることすらあります。たとえば、非常時の飛行機内での酸素マスクなども、まずは親が付けます。これは極端な例ですが、親の意識や健康を確保しなければ、子どもの命も危うくなってしまうことは多々あるのです。
 また、子どもと親は身体的にも違います。平等の名の下、子どもに大人とおなじ糖分を取らせたらどうなるでしょう。肥満や糖尿病の危険すらあります。これは「一物全体(いちぶつぜんたい)」「身土不二(しんどふじ)」という、摂取すべき食物に関する先人の知恵にも相通じます。
 具体的な説明は避けますが、ごく簡単に言えば「一物全体」とはひとつの食物を頭からしっぽまで丸ごと食べましょう、といった意味で、「身土不二」とは自分で歩き回れる範囲で、自分の手で獲得できるものを食べましょう、という地産地消とでもいうべき食物消費姿勢を指します。たとえば、筋骨たくましい大人が野生のイノシシや鳥を捕まえて食べるのは良いのです。自分で捕まえることができるからです。一方の子どもたちも、自分の手で捕れるものを食べれば良いということになりますが、子どもが自分で捕れるものは自ずと限られてきます。地の旬の野菜や果物を中心に、小動物や小魚などのタンパク質あたりが関の山でしょう。
 要するに、子どもと大人は少なくとも社会的・身体的に異なるので、平等の名の下ひとくくりにおなじ物を摂取するのではなく、区別して食物消費を行うのが自然なことなのです。このように考えれば、平等を貫くためには区別が必要であることは、ご理解いただけるでしょう。


| 親は子に教えられない

特集イメージ4 もうひとつ、これも分けて考えれば明白なのですが、家族という近い関係にあることから勘違いしてしまうことがあるので、苦言紛いを呈しておくことにします。
 私は基本的に、親は子に勉強を教えることはできないと反省に基づいて信じています。私自身、これで失敗したことがあります。第一にそもそも教育者でない人が教育すること、特に学問を教えることは一般的には行われません。しかし、これが家族となると、親はいきなり「先生」になろうとしてしまいます。小・中学レベルの基礎的な学問を修めていることと、それを教えることは次元が異なるのです。さすがに、英語が苦手な親御さんが、我が子に英語で話しかけて英語教育をするようなことはないでしょうけれども、いざ算数や社会となると教えようとしてしまうのです。
 ここでも、分けて考えることが肝要です。餅は餅屋。学業に関しては学校の先生に任せるか、それで不足があれば、塾へ通わせるのが良いでしょう。
 また、付け加えれば、これによって親子関係をこじらせてしまうことすらあります。我が家でも危ういところでした。幸い、自分でもおかしな事をしているのに早々に気づくことができたので、それ以来、子どもたちに学校の教科を教えることは止めて、塾講師の友人に任せました。もちろん、質問されれば答えます。英語の文法なども解る範囲で答えます。しかし、私は幼児・小学生・中学生などに使える英語を身につけさせる指導においてはプロですが、文法教育には自信がないので、尋ねられても「先生に聞いて」と答える程度にしています。

 親と子を分けて考える。兄弟を分けて考える。一緒に住んでいるからといって一緒くたにするのではなく、それぞれの年齢、役割、得意分野や性格などなど、区別してそれぞれの分あった物や事を割り当てていく、これが平等というものではないかと考えています。


| その二、親ばかを貫く。

特集イメージ5 近年グローバル化が進んだせいか、もしくはマイノリティーに目が向けられることが多くなったせいか、文化が多様化していることを日常的に肌で感じる機会が増えました。そんな多様化の波に乗っているのかいないのか、もしくは昔から存在したグループがクロースアップされているのか、なんともまぁ、様々なタイプの親の存在には、ここ最近目を見張るものがあります。
 体罰は悪いことです。しかし、そもそもの原因は体罰される方にあります。私も先生には何度か殴られたものです。そしてその都度、深く反省して繰り返さないように心がけたものです。しかし、体罰を受けたことは親には言いませんでした。言えば、先生から怒られただけでなく、さらに親からも大目玉を食らうことは必定だからです。親も体罰を与えた教師に憤るより、そんな悪さをした我が子を恥じたものです。しかし、最近では体罰を与えるどころか、ルールを破った子に何らかの罰則を科すだけで、怒鳴り込んでくる親もいるそうです。
 思い返してみれば、確かに、私の世代にもそんな親はいました。そして、一悶着の後に学校から居なくなった教師も見てきました。昔からそのようなタイプの考え方を持つ親がいたことには違いありません。しかし、近年そんな親が増えているのか、もしくは偏向報道のせいか、いわゆるモンスター某の騒動を知るたびに、隔世の感を抱くのは私だけではないでしょう。繰り返しますが、体罰を肯定しているのではありません。しかし、悪さをした当人は、反省すべきであり、その親は自らの不届きさに恥ずかしがるのが、人としての自然な習いであったことは確かです。
 さて、そんな昨今、私は我が子と学校の関係に関してもひとつの姿勢を貫いてきました。それは「うちの子はよい子だと、絶対的に信じる」という点です。勉強ができるとか、運動に優れているとか、特別な才能があるとか、完璧だとか、そんな意味ではありません。我が子たちは頭脳も運動神経も芸術センスも百人並みです。しかし、よい子である、善良な人たち(英語で言えば単純に ‘good people’ )であるという、そんな程度の意味での「よい子」であることは疑ったことがありません。しかも根拠があるわけではありません。世間で言うところの「親ばか」であることは間違いがないでしょう。


| 我が子を見る目が曇ってしまう

特集イメージ6 しかし根拠に乏しい「親ばか」は、もろく儚いもの。育児のあらゆる場面で、第三者(専門家と呼ばれる方々)が我が子を分析し、親はその報告を受けるわけです。たとえば、医師や教師から「言葉が遅い」とか「問題行動が多い」と言われれば、「親ばか信念」も揺らぐのです。
 実際に問題行動や発達遅滞があれば、親が責任を持って対処しなくてはなりませんが、フォルスアラートであることも少なくありません。両親揃って、専門家の言を鵜呑みにしていては、仮に事実誤認であったときどうするのでしょう。それこそ、取り返しの付かないことになってしまいます。
 また、成績の付け方にしても、小学校は相対評価ということもあり、さらに、教師の主観が多少なりとも入ることは間違いないので、通信簿の学業成績が、我が子の知的格闘力を正確に表しているとは言えません。そこで、私は、子どもたちの通知表を一切見ないことにしました。より広範囲の模試などで成績がつけられるのであれば別ですが、一学校のひとつの通知表で一喜一憂することを避けるためです。つまり、我が子に対する第三者の評価を見ることによって、自分の我が子を見る目が曇るのを避けたのです。少なくとも私はその姿勢を貫いたので、我が子たちの学校での成績は知らずに過ごしてきましたし、倅たちも、少なくとも父親に通知表を見せることはしませんでした。
 そのおかげで、子どもたちを見る目を曇らせることを回避できたのでしょうか、僕にとって彼等はいまだに平凡ながら「よい子」のままです。
 ところが、最近では大学から成績表が親宛てに送られてくるのです。しかも、その旨が封筒に記載されていないので、「大学から何かの知らせか」と思い開封したところ、次男の成績表でした。あまりのお粗末なGPA(Grade Point Average:成績評価の指標のひとつ)に驚愕すると同時に、それ以降、彼を色眼鏡で見るようになってしまったことは言うまでもありません。もっとも、進路も定まったので、今では笑い話ではありますが。
 ところで、これは注意点です。親ばかに徹するのは大いに結構です。我が子を信じて疑わない姿勢も大切です。親が信じずに、誰がその子を信じてくれるのでしょう。しかし、これも度を過ぎれば、問題です。我が家では、我が子は信じるが、我が子の悪さは諫めてきました。また、学校のルールを守る、社会のルールを守る、そんなことは親ばかの大前提です。そして、この道徳的な大前提を欠いてしまうと、愛すべき「親ばか」の「親」と「ばか」の順番が入れ替わってしまうことになるのです。ここは、順番があべこべにならないように、肝に銘じておきましょう。

 また、問題行動に関しても、ひとつだけ付け加えておきましょう。と思ったのですが、今回は紙数が尽きました。親として心がけたことは「その五」まであるのですが、残りはまた別の機会に譲りたいと思います。尻切れトンボになったことはご容赦くださいませ。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

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