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2017年10月号特集

Vol.235 | すべての言語は方言?!

実は日本語と英語は方言程度の差しかなかった?

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
http://palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-1710/
船津洋『すべての言語は方言?!』(株式会社 児童英語研究所、2017年)


| 遺伝子に描かれている

特集イメージ1 ここ数年、毎日せっせと大学へ通って講義を受けたり、あれこれ文章を書いたりと、五十の手習いに励む日々が続いています。どうやら、残りの五十代は学校で過ごすことになりそうです。
 ところで、そんな日々を送る中、学者とは、日常の極めて当たり前のことをなんとも小難しく考える人たちだなと、感心してしまいます。もっとも、日常の当たり前にこそ、何らかのロジックが存在するわけで、それを解明していくのは有意義であることは言うまでもありません。
 それにしても、様々な問いがあります。なぜ幼児はわずか2年ほどで母語を身につけてしまうのだろう、とか。日々耳にする音声言語には文の意味以外にも話者の年齢、性別、体調などの様々な情報が含まれている、とか。ケネディ大統領が暗殺されたとすれば、ケネディは死んでいると含意されるし、アメリカには大統領がいると前提される、とか。いやはや、当たり前のことをかくも大まじめに考えるものだなぁ、と感心してしまうわけです。
 もっとも、それが学問の本質の一面であることは間違いないわけで、「本当にこうなのか?」と、普段であれば、なんの疑問も持たずに当たり前のこととして見過ごしてしまっている事どもを、一度立ち止まって自分なりにじっくり考えてみる。これ既に学問なのかもしれません。
 現に僕も、なぜ幼児はことばを身につけるのだろう、なぜ世の中にはバイリンガルが存在するのだろう、このような当たり前の事象の根っこに何があるのか、その仕組みがどうなっているのかを知りたくて、いい歳をして大学に戻っているわけです。見たり聞いたり体験したりしたことを、当たり前のこととして思考停止するのではなく、疑問を持って、知りたいと思うのが学問の第一歩であることは間違いないでしょう。
 それにしても、当たり前のことを哲学的にくどくどと説明されるのは気質に合わないので、うんざりさせられることが少なくありません。しかし、そこは自分の知的格闘力を高める訓練だと諦めて頭の体操に励む日々ではあります。
 ところで、学問というモノの一側面が「当たり前のことを論理的に考える」ということであれば、それは学者でなくてもできてしまうことになります。いかがでしょう。地震などの自然災害、政治や行政にまつわる不祥事などの度に専門家の学者さんが登場しますが、その発言内容と言えば、素人の門外漢でも分かるような常識的なことが目立つと感じる方も少なくないでしょう。
 言い換えれば、世の中のことを理解するためには専門家である必要などまったくないわけです。主観の色眼鏡を排除し客観的に物事を見て、それらを常識的な価値基準と論理性を以て突き詰めて考えれば、物事の本質は意外にくっきりとその姿を現す、そんなことは珍しいことではないのです。何かを知るためには専門家である必要はない。思いの外多くの事が常識で考えれば分かってしまうのです。


| コミュニケーションのために言葉が進化?

特集イメージ2 ヒトはコミュニケーションのためにコトバを使います。もちろん、言葉以外の仕草、表情、また言葉に乗せるイントネーションなどにも様々な情報が詰まっていますが、言語がコミュニケーションの中核を担っていることは改めて言うまでもありません。
 さて、その言語ですが、いかにして人類はこれを手に入れたのでしょうか。コミュニケートの欲求に駆られているうちに、次第に言語を獲得していったと考える人もいるでしょう。またこれと似た考え方もあります。コミュニケーションの必要があったので、その必要に応じて言語を発展させていったという考え方もあるでしょう。これらは必要や欲求により進化するという考え方ですが、果たしてどうなのでしょう。生物は必要に応じて進化するのでしょうか。
 この考え方に則れば、さしずめキリンは「あの高いところの枝葉はおいしそうだなぁ」、と考えているうちに首が伸びたことになります。
 なるほどと納得する向きもあるでしょう。しかし、少し立ち止まって考えてみれば、そんなことはあり得ません。必要や欲求で身体の形が変化するのであれば、海辺に住む部族は数十、数百世代の時を経て、終いにはエラ呼吸を獲得することもできるでしょうし、山岳民族がいつしか翼を手に入れることも可能と言うことになります。しかし、常識で考えれば、人類がエラや翼を手に入れるとは考えがたいことは言うまでもありません。
 しかし、現にエラを持つ魚類や翼を持つ鳥類はいるわけです。彼等はいかにしてその能力を手に入れたのか。それらを「欲求や必要性」ではなく「突然変異」と考えるとどうでしょうか。たまたま、鳥の骨格をしている陸上生物のとある一個体に、何らかの変異が起き、その体毛が羽根の形になったと考えてみる。また、その一体がたまたま腕を広げたところ、揚力を得て空中に浮揚したと考えてみる。さらに、その個体は移動の自由を得て、他の個体に比べて高い生存力を同時に得たことによって、広く繁殖していった、と考えてみる。
 キリンも同様です。偶然一個体が突然変異で長い首を得た。その個体は背の高いところにある食物を捕食できるようになり、他の個体より生存力が強くなった。そして、繁殖の機会が増え、その数を増やし、首の短いキリンが死滅していく中で首の長い変種が生き残った、と考えてみることもできるでしょう。
 私は生物の進化に関しては素人以下の知識しかありませんが、常識で考えれば、進化は「欲求や必要性」によらず、「突然変異」が引き金となって、偶然その変異の結果が適者生存と合致しただけだと考えるのは極めて論理的ではないでしょうか。つまり、いろいろな変異が起こる中で、たまたま環境に適応できた変種が生き残っただけと考えられるでしょう。
 話を言葉に戻せば、言語も必要性や欲求によってヒトが得た能力ではなく、とある一個体に起こった突然変異によって、我々にもたらされた能力であると考える方が論理的でしょう。どうやら言語に関するこういった考え方は、チョムスキーに代表される有力な言語学の一派の中では、常識的と受け止められているようです。


| 突然変異のイブ

特集イメージ3 現在の人類と見た目は同じような人類の先祖が長い間アフリカ大陸に住んでいました。ただ、その人類の先祖は言葉を持っていませんでした。体躯は今の人たちと同じなので、声も出せますし、歩きも走りも出来たでしょう。しかし、言語は持っていなかったのです。
 ところが、5万年から10万年ほど前、とある個体に突然変異が起き言語を獲得します。このあたり誤解を招きやすいので、コミュニケーションという概念に関して少し付け加えておきましょう。
 言語を用いたコミュニケーションは、他の動物のコミュニケーションとは異なります。よく知られるように、ミツバチはかなりの精度で花の蜜の位置の方角と距離を仲間に伝えます。また他の動物たちも鳴き声で危険を知らせたりすることは常識です。チンパンジーなどの霊長類では、かなりの多くの情報をお互いに共有できる方法を持っていることも知られています。
 しかし、それら生物のコミュニケーションと、人間の言語によるコミュニケーションとでは決定的に異なります。学者たちの好きそうな言葉ですが、ヒト言語の特徴は「離散無限性」にあるそうです。離散無限性とは、ひとつひとつバラバラ(離散的)な語によって、無限の組み合わせが存在することだそうです。もちろん、言語による表現には限界があります(絵画や音楽に留まらず感情なども言語での表現には限界があります)が、ヒトの言語は相当複雑で論理的には無限の組み合わせや長さを持った表現を産出することができるのです。
 さて、そんな離散無限性を備えた言語を、とある個体が突然変異によって獲得します。その個体は外界の様々な概念を思考と結びつけるために言語を使用します。モノや動作に名前を付けたりするだけでなく、言語の存在によって、目の前にない、過去や未来のことも思考できたりするようになります。そして、その個体の子どもたちも遺伝子を引き継ぎ、同じような思考ができるようになる。そして、かなり複雑な意思疎通を可能とする一家族が構成されていくわけです。そんな家族が何度か生まれては、滅んでいったのかもしれませんが、その中で偶然にも有力な一家族が、部族をつくるようにその構成員を増やしていったのでしょう。そして、言語を持たない他の人類の先祖を駆逐していったのかもしれません。
 これらは、すべて常識的な思考ですが、どうやら、このような考え方を裏付ける証拠が出つつあるようです。
 そして、6万年ほど前に、その一団がアフリカを出てオセアニアに向かった。そこから、全世界へ広がっていったのが人類の先祖、というわけです。道理で人類はみな「言語」を持っているはずです。この意味では人類は皆兄弟だったわけですね。そして、これまた突然変異を繰り返しつつ、現在の見た目の多様性に至ったのかもしれません。


| バベルの塔

特集イメージ4 さて、そのようにして、どうやら言語という同じ遺伝情報を共有する人類が世界に広がっていったようですが、時が経つうちに言語は多様性を増していきます。
 現在、7,000とも言われる言語が世界に存在するそうです。数え方にもよるのでしょうけれども、我が日本にも10以上の言語があるとされています。世界で最も読まれている本に拠れば、「バベルの塔」の建築で神に近づこうとした人類に怒った神様が、人々が協力できないよう言葉が通じないようにしてしまったそうです。イタリア語、ポルトガル語、フランス語などなどのロマンス語の一派では確かに似ているところはありますし、ノルマンの征服言語接触によって、フランス語が英語に流入したり、また、下ってルネサンス期にはラテン語が英語の語彙を増やしたりと、いろいろ言語接触はあります。しかし、エリアが離れていたり、行き来のない言語に関すれば、祖先を同じくする印欧祖語でも、同じ遺伝子を持つ言語とは思えないほど違います。
 しかし、一度は世界中に広がって多様性を極めた言語に、今度は「バベルの塔」とは別のバイアスの変化が起こりつつあります。グローバル化です。
 言語接触は昔からあって、日本も縄文や弥生の頃から話されていたと思われる大和言葉や日本文化の原形と、半島や大陸からの様々な概念や言語情報または文化の接触が続いていました。また文字がもたらされてからも、継続的に中国語の語や概念は日本に流入し続けます。さらに、明治期になり西洋の学問を積極的に取り入れるようになってからは、漢語を変化させたりしつつ新しい言葉をせっせと作ります。言葉は常に他の言語と接触しながら、またその体系の中で変化し続けているわけです。
 そして、グローバル化が激しい今日、言語接触と共にもたらされる文明が浸透し、人や物が広域で往来するようになると、力のない言語は次第に使われなくなっていきます。若い人たちが都市部に出て行けば、自然と方言が消えてゆくのと同じ仕組みです。このようにして、いったん多様性を見せた言語は、今その数を減らしつつあります。日本でも絶滅しつつある言語を守ろうという動きがあります。その方言で育ったネイティブ話者がいなくなる前に、どうにか保存したいというわけです。
 しかし、言語の多様性とはとても興味深い現象です。サピア・ウォーフ仮説に拠れば、ヒトはその言語によって思考が制限されるそうです。確かに、英語で考えている人と日本語で考えている人とではモノの見え方が違います。鈴木孝夫氏なども触れていますが、日本人の子が太陽を描くと赤く塗るのですが、米国では子どもたちは黄色で塗るそうです。また、虹の色の数も日本とフランスでは異なりますし、それこそ、基本色彩語は言語間で異なり、白と黒しか色を表す語を持たない言語もあるのです。
 「語」を持つことで、概念は知覚されます。現地の人々にとっては単に「何もない」場所に過ぎないセレンゲティの草原も、「大自然」という概念を持つ西洋人にとっては感動して涙する景色となったりするわけです。興味深い例は、現代の日本語にもあります。国語学の講義から一例を紹介します。「〜している」という表現は、英語で言う進行形のような働きをします。ところが、同じ表現でも動詞によっては意味が変わります。例えば「金魚が死んでいる」といえば「金魚が死につつある」のではなく「死んだ金魚がいる」意味になります。ところが、この表現(「金魚が死んでいる」)に相当する九州北部の方言「金魚が死による」は、死んだ金魚を指しているのではなく、「金魚が次々と死んでいる」状態を表します。同じ現代の日本語でも、地域によって随分と表現できる内容が異なるのです。しかし、繰り返しになりますが、そのような多様な言語もグローバル化によって確実に淘汰されつつあることは間違いないのです。


| 我々はすでにバイリンガル?

特集イメージ5 ところで、アイヌや沖縄地方の言語もひとつの言語と数えられています。言語(方言も一言語)とは、レキシコン(語彙)や発音や文法を含む体系のことを言います。つまり、沖縄出身者で共通語を話す人は2つの言語を操っていることになるわけです。関西の言語を話す人が東京の言葉を身につけ、それら2つをケースバイケースで使い分けるのは、まさにバイリンガルのなせる技なのです。
 「バイリンガル」というと、日英バイリンガルを思い浮かべる方も多いでしょうし、その当人が日英のバイリンガルでない限り、「バイリンガルである」ということはどういう状態なのか、なかなか想像しにくいかと思います。ちなみに、僕も日英バイリンガルの端くれで、日本語でも英語でも理解や思考はします。しかし、それがどういう状態なのかと問われれば、単に、日本語が耳に入ればそれが理解でき、英語が耳に入れば同じように理解できる、ただそれだけのことです。もちろん、活字の情報も理解できますが、それらを日本語に訳して理解する、などという手順は踏まずに直観的に理解できます。もし、地方出身の方で東京方言や共通語、さらには出身地域の言葉を使い分けていらっしゃる場合、それが「バイリンガル的な言語の使い方」なのです。おそらく、どのように使い分けているのかご自身でも自覚できないほど、自然に使い分けているはずです。
 と、まぁ、このような単純な例から見ても、常識で考えれば分かるように、複数の言語を身につけることは不可能どころか、誰にでもでき、実は日本人も日常的に行っていることに気づくはずです。
 現代の言語学ではヒトの言語は極めて共通点が多く、日本語と英語のようにまったく違う振る舞いをする言語でも、大局から見れば同じ”言語”であり、その差異は方言間の差異に過ぎない、と見る向きもあります。もっとも、全ての人類が突然変異で言葉を得た1人のイブの子孫であるとすれば、英語であれ、日本語であれ、同じヒトの言語であることには間違いはなく、大した差がないと考えることもできるでしょう。
 そのくらい大上段に構えて言語を眺めてみれば、日本語を話す日本人たちが、同じヒトの言語の一方言にすぎない英語ひとつ身につけられない訳がないのです。そして、もし身につけられないとすれば、その学習方法に問題があると考えるのは、いかがでしょう、常識的な考え方ではないのでしょうか。

 ということで、今回はヒトの言語に関して、その発祥から拡散、接触による変化について思いつくままに書いて参りました。また、多様化した複数の言語を使い分けることがいかに日常的に行われているのか、実は日本人のほとんどが既にバイリンガルである可能性についても触れました。これらの知見は決して専門家でなければ知り得ないことではなく、常識的に思いを巡らせるだけで私のような凡人にすらたどり着くことのできる知識なのです。
 英語は、誰にでも身につけることができます。人間以外の生物には英語を身につける事は不可能ですが、人間の遺伝子を持っている限り、我々は突然変異のイブの遺伝子を引き継いでいるわけです。この言語を獲得する遺伝子を持っている限り、幼児にも小学生にも、中学生以上、例え老年の域に達した人たちにでも、英語を身につけることはできるのです。
 長々と書いて参りましたが、この稿が、自信を持ってお子様の、そしてご自身の英語獲得へと改めて取り組む励みになれば幸いです。

※参考文献1『言語の科学 ことば・心・人間本性』(ノーム・チョムスキー)
※参考文献2『日本語と外国語』(鈴木孝夫)


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

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