パルキッズ通信 特集 | リスニング, 四技能, 日本の教育, 英語教育, 読解力育成
2017年11月号特集
Vol.236 | 四技能よりも二技能
明治以来できなかったことが、四技能教育でできるようになるのか?
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
http://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-1711
船津洋『四技能よりも二技能』(株式会社 児童英語研究所、2017年)
個人的な印象ですが、英語教育に関して、近年「四技能」という言葉を耳にしたり目にする機会が増えたように感じます。小学校での英語の教科化、中高の英語教育改革、大学入試のセンター試験英語の見直しなどのニュースの中で、かなりの頻度でこの「四技能」が「グローバル化」や「2020年」などの枕詞に導かれるようにお出ましになるわけです。「2020年」のオリンピックに引っかけた英語力向上論議には失笑の感を拭えませんが、文科省をはじめとして、各種関連検定試験団体は、どうやら「四技能」をバランスよく伸ばすことを真面目に考えているようです。 「四技能」は、早くも小学生の英語にも顔を出します。今後、小学生は3年生から従来型の英語を「聞く・話す」取り組みが必修化されますが、高学年では「聞く・話す」に加えて「読む・書く」取り組みが導入され、同時に評価対象の教科となります。音声を媒介とした言語情報系の「聞く・話す」の四技能に、文字を媒介とした言語情報系の「読む・書く」を加えて四技能となるわけです。 また、中学校や高校でも、古典的な「読む」ことを通して英語に触れる学習法に加えて、最近では「聞く」能力の涵養も、ALTなどを活用して繁く行われています。これらは先の小学生の英語学習に見られた、音声系(聞く・話す)と文字系(読む・書く)という分類ではなく、情報の入力系(読む・聞く)であることに留意が必要です。 つまり、従来型学習では、英語で発信された情報をいかに受けとるか、という点を中心に英語学習が展開されてきたわけです。しかし、世界はグローバル化しているので、これからは発信系の「話す・書く」を合わせた四技能をバランスよく身につけようという方向へ、学校教育の舵が切られつつあるということです。 そして、この潮流の中で、大学の入学選抜試験でも四技能での能力判断をしましょう、となるわけですが、各大学で独自に四技能を測定する試験を課すのはどう考えても無理があります。そこで、英検やTOEFLなどの外部試験を活用しよう、となるわけです。とても分かりやすい構図です。ただ、これが学生たちにとって良いことなのか、また、この方向性が子どもたちの英語力向上に資するのかどうかは、少々検討してみる必要があるのではないでしょうか。
| 四技能能力の実態
日本人の英語力海外との比較で、しばしば取り沙汰されるのがTOEFLです。そのTOEFLのランキングにおいて、170前後の国の中で日本は10年前で130位台、ここ数年は140位台です。過去の正確な順位は見つけられませんでしたが、この数字は90年代からあまり変わっていないようです。 TOEFLは、すべての学生が受験するわけではありません。日本人の中でも特に英語力に優れ、留学を志すような優秀な人たちが受験するものです。そのような優秀な学生たちの英語力に於いても、日本人は世界でも下位、アジアでもビリ争いを延々と繰り広げているのです。お隣の中国・韓国と比べると目を覆いたくなるような惨憺たる現状です。 では、この30年間、日本は何もしてこなかったのでしょうか?いやいや、そんなことはありません。中学での英語の授業コマ数は、週3から週5に増えています。小学校でも英語が導入され、数年後からは週3コマ英語を学ぶことになる小学生も少なくありません。我が国は子どもたちの英語力に関して、何もしていないどころか、英語には相当力を入れているのです。 頑張っているのに一向に進歩しない。努力しても報われない。これは辛い現実です。そんな現状を見て、「今までのやり方ではダメだ」と感じるのは正常な精神でしょう。そして、「読む」を中心に「聞く」ことを加えて展開してきた従来の英語教育に「不備あり」と烙印し、「グローバル化」と「オリンピック」を口実に「書く・話す」も含む教育への方向転換をすることによって、何らかの改善を夢見るのも、まぁ、分からなくはありません。スケープゴートを想定しなければ、文科省や学校が悪者にされてしまいますから。 ただ、そのこと、つまり「四技能」を声高に叫ぶことによって、日本人の英語力は底上げされるのでしょうか?もう少し、学生たちの英語力の現状を、もう少し冷静に観察してみましょう。
| 「聞く」「読む」の順で苦手
本誌でも何度か引用している文科省の「英語力調査結果の速報」を眺めていると、興味深い数字に気づかされます。文科省では、CEFR (Common European Framework of References for Languages) というヨーロッパの人たちのコミュニケーション能力を測定する指標を用いて、日本人の英語力を測ろうとしています。この指標では、最も低レベルのA1から、知識層レベルのC2の6段階で言語力を評価します。ざっくりと書くレベルの言語力を記すと以下のようになります。A1は「挨拶文や住所国籍などの個人情報や自分の住む地域のことを伝えることができる」で、これが英検でいえば3級レベルだそうです(http://4skills.jp/qualification/comparison_cefr.html)。A2は「日常的な社会生活を送るに必要な情報交換ができる」レベルで、英検準2級。次のB1は「経験や夢、計画などが説明でき、観劇や読書の感想が述べられる」レベルで、英検2級レベル。果たして英検2級で洋画を見て感想を語り合えるのかどうかは知りませんが、そのようにランクされています。 ここから先は、かなりレベルが高くなります。B2は「関心事に関する広範な題材に関して綿密なエッセイを書け、詳細な情報伝達のためのレポートも書ける・・・」そうです。ここまで来ると、英語どころか、母語である日本語ですら怪しい人も相当見かけます。大学レベルの言語力、英検なら準1級相当と考えてよいでしょう。 C1では「複雑な題材に関する明確で詳細にわたる説明を、いくつかの副題にまとめつつ、自らの論点を発展させる事ができる。さらに手際よく適切な結論へと導くことができる」と、社会人レベルのコミュニケーション力、英検なら1級。そして、C2「自分の意見を淀みなく、微妙なニュアンスも的確に表現できる。仮に持論の論理性に問題が生じた時には、相手にほとんど気付かれることの無いほどの滑らかさを持って、話を元へと戻し問題点を迂回すべく文章を再構築することができる。確固たる自分のスタイルで柔軟かつ効果的に聞き手に話し、持論を明確且つ的確に表現することができる」そうです。母語でもここまで言語を使いこなせる人は、決して大多数ではありません。 さて、この CEFR を文科省は学生の英語力の測定ツールに据えて、当面は中学3年生の半分がA1に達することを目標としているようです。しかし、その達成率はというと、厳しい現実が見えてきます。「書く・話す」でそれぞれ43%、32%と、目標値には届いておらず、「読む・聞く」では、それぞれ25%、20%と、さらに目標に遠く及びません。先ほどのTOEFLの結果がここ30年にわたりあまり変化していないことを考えれば、かつて僕が学生だった頃の30年前も、こんな感じだったのでしょう。 ところで、上の数字を見て少し奇妙なことに気づきます。文科省が力を入れていくと言っているところの出力系の「書く・話す」能力が、日本の伝統的な教授法で養われてきた「読む・聞く」よりは得点が高いのです。この事からいくつか問題点が浮かびます。ひとつ目は測定の問題。つづいて、英語力の根幹の部分に関わる問題です。 まずは、測定に関わるところから始めましょう。ここで、「書く」ことに関しては42%が、「話す」ことに関しては32%が目標値をクリアしているとされていますが、これは測定の仕方に問題があるのかもしれません。ニュース(http://www.asahi.com/articles/ASK2S419LK2SUTIL00Z.html)によれば、件の2016年度調査の採点で、「話す」に関しては、なんと7割超の生徒に対して甘い採点をしていたことが報じられています。0点をつけるのが忍びなかったのかどうかは分かりませんが、それだけ甘い採点が成された上で、目標達成率が32%であることを考慮すれば、「書くこと」に関しても果たして4割超が目標点をクリアしていたのかどうか甚だ疑わしくなります。 そもそも、書いたり話されたりした内容から言語力を測定するということ自体、かなりの問題を孕んでいます。 データを示した方が良いので、恥ずかしながら、私の TEAP (Test of English for Academic Pueposes) の結果を引き合いに話を進めて参りましょう。もうこの歳ですし、著作も二桁を数えるほど「書く」ことを日常とする生活がここ20年続いています。学業の方でも、専門外の国学や日本史でも論述形式の課題ではA以外を取ったことがありません。日本語ばかりでなく英語でも日々エッセイを書いていますし、英検1級も持っています。もちろん日本語よりは英語の言語力が劣る観は否めませんが、それでも人並み以上に英文を書けると、恥ずかしながら心中自負しています。 さて、その私が TEAP を受けるわけです。結果は、スピーキングは満点、リーディングとリスニングは満点とは行かないまでも、ここまでの3技能では評価は「A」です。ところが、スピーキングと並んで最も得意とするところであるはずのライティングの得点をそこに加えて四技能で割ると、いきなり「B」評価となるのです。ひどいエッセイだったのかどうか定かではありませんが、「グローバル化」とか「温暖化」などといった一般的なトピックが課題なので、書こうと思えば10枚でも20枚でも書けます。もちろん、日本語でも英語でも。ところが、3技能の「A」を「B」に引き下げるほどの点数を採点者の先生は私に下さったわけです。繰り返しますが、本当にひどいエッセイだったのかどうかは、それを書いた当の私と採点者のみぞ知る、です。
| 採点できるのか
さて、ひとつ目の疑問、つまり論述内容をいかに正しく評価できるのか、という問題について書いているわけですが、果たして標準化された評価ができるのでしょうか。 最近では大学入試のみならず、中学入試でもエッセイで文章力を測ることは珍しくありません。もちろん、大学のみならず、高校中学、小学校と、ありとあらゆる場所で「書く」技能それ自体や、それによって書かれた内容によって言語力は評価されています。 もちろん、ポイントが述べられているかなどの部分的な点数の積み重ねや、反対に文法のミスなどの減点などのガイドラインはあるのでしょう。しかし、人間が行うことなので、揺れや幅が生じてしまうことは避けられません。同じエッセイでも、採点者によってはBをもらえ、別の採点者であればAやCになることは予測可能な結果なのです。 センター試験の後継として予定されている大学入学共通テストでは、国語や数学に論述式の設問が導入されるようですが、問題を見てみると、論述というよりは、極めて狭い範囲で要求されたことを文章化する能力が問われる出題内容となっています。もはや、論述というよりは穴埋め問題のようですらあります。やはり、「ここまでポイントを絞り込まなければ、採点できないのか」と感じてしまうような設問なのです。もちろん、まだ実施されていない試作の段階なので、今後さらに自由な長めの文章に於いても文章力の測定ができるようになっていくのかもしれません。 このように、日本語ですら採点することは難しい文章力です。それを英語において導入することになるわけですが、果たしてその測定精度は公平に満足の行く範囲で収まるようにすることができるのか、英検協会さんのお手並み拝見というところでしょうか。
| もうひとつの問題
さて、英語能力テストの結果から導き出される、もうひとつの問題へ話を進めましょう。採点者による採点の自由度や揺れ幅の大きい「書く・話す」よりも、点数が低かった「読む・聞く」です。「読む・聞く」は採点が簡単なので、こちらは比較的正確かつ公平に測定ができていると想像します。さて、その正確に測定された「読む・書く」技能に於いての目標値をクリアした生徒は25%と20%でした。 果たして日本人向けに独自に作られた設問の難易度が、CEFR の基準と合致しているのかという疑問は残ります。しかし、これに関してはとりあえず目をつぶるとして、その結果の数字のみ見ても、まったく満足の行くものではありません。中学生の英語力はその大半の生徒に於いて英検3級レベルをクリアしていないのです。クリアしているのは、「読む」で4人に1人、「聞く」では5人に1人に留まります。
| 四技能って
さて、もともと四技能というのは、言語能力を測定するにおける一面たちの「寄せ集め」に過ぎません。「測定のための概念」といっても過言では無いでしょう。そこで、「四技能をバランス良く」などという聞こえのよい言葉ではなく、具体的な言語力のあり方という点に目を向けてみましょう。 日本人における英語という視点では理解しにくいので、外国人における日本語を例に考えてみます。「能力測定」という見地から離れて、純粋に「外国人が日本語を使う」という視点に立つとき、まず日本語を使いこなすために彼等に必要な技能は何でしょうか。話す技能でしょうか。書く技能でしょうか。それとも読む技能でしょうか。答えは言うまでもなく「聞く」技能です。 まず聞き取れないことには、社会生活の第一歩すら踏み出せません。なぜならば例え話せたとしても、相手の言うことが聞き取れなければ、その社会で生活はできないからです。旅行者のようにお客さんとして日本を楽しむのであれば、身振り手振りで十分ですが、日本で仕事をしたり、勉強するのであれば、コミュニケーションを取る必要があります。その中でも特に、相手の言っていることを理解することができなければ、仕事も勉強も何も始まりません。まずは聞き取ることが、コミュニケーション力のはじめです。 次に必要な技能は何でしょうか。話す技能かといえば、もちろんその一面はなくもありません。自分の考えを述べたり、何事かを要求したり、そんな時には話す技能は必要となります。しかし、それ以上に重要な役割を果たすのは「読む」能力ではないでしょうか。外国人が来て日本の社会になじむのであれば、まず聞き取れなくてはいけない。しかし、その後日本の社会に於いて日本人と同じように自分の役割を果たすのであれば、読めなければ本当の意味で日本人と同じレベルで情報の収集ができないわけです。 ただ、現実はそうではありません。どうも、日本人は外国人を見ると「お客さん扱い」する遺伝子を持っているようで、せっせと英語で話しかけたり、外国人の方に合わせたりして細やかに面倒を見てくれる(もちろんそうでない職種もあるでしょう)わけです。結果として、例えば教師として来ている外国人は、日本語をほとんど読めなくても生活が成立してしまう、そんな現状があります。しかし、逆のケースは果たして成立するでしょうか。英語を読めない日本人がアメリカに行って一人前に生活出来るのでしょうか。もちろん、日本人だからと言って、お客さん扱いはしてくれませんので、英語が読めないことには、あちらで日本人が仕事をすることなど不可能です。 その意味では、日本にいる外国人は特別です。その国の言葉、例えば日本における日本語を聞く能力と話す能力があればどうにかなる、というのは日本においてのみ成立する奇妙な現象なのかもしれません。繰り返しますが、現実に社会生活を送る上で、聞く技能の次に重要なのは、読む技能です。 もちろん、話す技能がまったく不要ということではありません。ものを尋ねたり、依頼する程度の必要最低限の技能は要求されます。しかし、聞く技能や読む技能が不可欠であることは、しつこいようですが、強調しすぎることはありません。例えば、米国が高校の留学生に課している試験に ELTiS というものがありますが、その試験の設問はリスニングとリーディングのみです。つまり、「聞き取れて、読める」ことが最低条件で、その次に考えや要求を、的確に正確に伝えるための話す能力を磨くことが要求されるのです。 くどいようですが、もう少し付け加えておきましょう。件の四技能の関する個人的な意見ですが、「日本人は母語である日本語において、聞いたり、読んだりする技能は非常に高い。その一方で、人にものを尋ねたり、依頼する能力は極めて低い。」と感じます。気の置けない仲間と他愛も無いおしゃべりはしますが、仲間以外とは途端にコミュニケーションが取れなくなってしまう…。そんな傾向を、若い人たちを見ていて感じてしまいます。 そんな人たちでも、聞き取ったり、読み取ったりできる技能をしっかり持っているので、少々話す能力に欠けていても「静かな人だな」という印象を与える程度で、普通に生活はできます。ただ、そんな彼等に、もし「読む」技能が欠落していたら、大学や会社にも入れないでしょうし、それこそ当たり前の社会生活を送るのは不可能でしょう。つまり、聞いて読めることが、言語能力として身につけなければならない最低条件なのです。 英語の「聞く・読む」技能に関して、多くの日本人が満足のいくレベルに到達していない状態で、英語で話す練習や書く練習がどのような効果をもたらすのかは、私のような凡人の知るところではありません。
| コミュニケーション能力の欠如
また、別の角度から見れば、先に少し触れたように、日本人は日本語においてすら、話すことが苦手です。自分の考えを整理整頓して、正しく相手に伝えることができる中学生や高校生がどれほどいるのでしょうか。そして、日本語でできないことを、ましてや聞き取りや読み取りすら不自由な英語でできるわけがありません。単純な話、話したり書いたりするのは、まずは日本語で練習させるのが常識的だと思います。 以上を整理すれば、「日本人は英語の運用の最初の一歩である、聞き取りと読み取りができていない。」また、「日本人は日本語に置いてすら自分の意見を整理して出力することが苦手である。」これらは、厳然たる事実でしょう。 であれば、日本の英語教育に於いて必要なのは、「四技能をバランス良く」などといったきれい事ではなく、まず「聞く・読む」能力を引き上げて、英語で発信された情報を正しく受け取れるようにしてやることです。そして、発信する能力は、情報すらうまく取れない外国語である英語で練習するのではなく、母語の日本語でのコミュニケーションや論理的思考の練習を通して訓練すれば良いのです。コミュケーション能力や論理的な思考の技術は、一度日本語で身につけてしまえば、それを英語に転用することはたやすいことです。 「グローバル化する社会」や「(なぜか)オリンピック」へ向けて、発信方の「話す・書く」を含めた英語の「四技能をバランス良く」育てるという目標は、一部の人たちの目にはステキな目標だと映っているのかもしれません。そんな中「聞く・読む」に力を入れろなどと発言すれば、因循派と呼ばれるかもしれません。 しかし、地に足を据た常識的な思考を以て、実際の運用を前提とした英語教育のあるべき姿を考えれば、「聞く・読む」能力を現在のレベルから一刻も早く満足の行くレベルへと引き上げる必要があることは明白です。 パルキッズを実践中のご家庭に於かれましては、パルキッズで「聞く・読む」の能力を粛々と育てていただき、さらに発信力に関わるところのコミュニケーション能力や論理的な思考は、日々の日本語の生活の中で育てていくような家庭内会話を増やしていただければと願います。
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船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。