パルキッズ通信 特集 | かけ流し, 大量インプット, 学校英語教育, 英語のリズム回路, 言語獲得
2020年12月号特集
Vol.273 | インプット方式で「”自立した” 英語力」の習得を
幼児から大人まで、語学の天才でなくても英語を身につけられる方法
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。
自立と依存
英語力には2種類あります。ひとつは “自立した” 英語力、もう一つは “日本語に依存する” 英語力です。
これらは学術的な用語ではありませんが、現在のところ世の中に2種類あると思われる外国語の運用能力を表す適切なラベルが見当たらないので、敢えて、”自立した” とか “日本語に依存する” という表現をここでは使うことにします。
今月はそれら異なる2つの種類の英語力とそれらを習得することが、あるいはいかに難しく、あるいはいかに容易であるのかを説明します。その後、「パルキッズ」のインプットメソドによる”自立した” 英語力の習得とはいかなるものであるのかを説明して参ります。
”自立した” 英語力とは、他の言語の関与なくして成立する英語の能力のことです。アメリカやイギリスなど所謂インナーサークル*の住人が生まれながらに、自然と身につけていく英語力のことで、一口に言ってしまえば、母語としての英語力となります。
彼らは、日常的にまるで空気のように英語を使いこなします。特段の苦労もなく、英語で考え英語でコミュニケートします。もちろん、コミュニケーションや表現力に於いてその運用能力は千差万別です。ただ、彼らが思いを巡らせるときに、日本語やフランス語や中国語など他の言語の助けを必要とすることなく、英語を使って思考していることから、彼らは一様に “自立した” 英語力を持っていると言えます。
この点に於いては、日本人も “自立した” 日本語力を持っていると言えます。私たちは、例えばこの記事を読んだり書いたり、あるいは日常的に会話をするとき、また思考するときには、もちろん日本語を使用しています。そこには英語や中国語、フランス語など他の言語の入る余地はありません。
つまり、日本人が “自立した” 英語力を身につけると言うことは、私たちが日本語を使うのと同じような感覚で、英語を使いこなせることを意味します。英文を耳にしたり目にしたりするときにはもちろん英語のまま理解し、さらには英語で思考すら出来る、これが “自立した” 英語力のあり様です。
他方の “日本語に依存する” 英語力とは、日本語の助けを借りながら、英語を理解する言語能力を指します。日本人が小学校から学び始める英語は、あくまでも外国語のひとつであり、当然そのまま理解することなど出来ないので、母語である日本語を介して英語を理解する事になります。
このような英語力は実際の運用には到底役立ちません。挨拶を始め入国審査を受けたり、英語で食事を注文する程度の定型的なやりとりは出来るでしょうし、看板や簡単な案内文などは理解することが出来るかも知れませんが、自分の意見を詳細に英語で述べたり、議論するなどの運用は出来ませんし、ましてや英語でものを考えるなどは夢のようなはなしでしょう。
ある程度反復された定型的なやりとりは別として、新しいく入ってくる英語の情報に関しては、私たち日本人は一度日本語に訳して理解することになります。つまり、日本語の助けを借りてようやく成立する、という意味で、大半の私たちが学校英語を通して習得した英語力とは “日本語に依存する” 英語力なのです。
天才でなければ極められない “日本語に依存する” 英語力の習得
さて、このように英語力には2種類を定義しましたが、問題は「”日本語に依存する” 英語力」の習得がどのレベルまで可能であるのか、という点です。
「”自立した” 英語力」の方は、ネイティブにとっての母語のような英語力、私たちに日本人であれば、日本語と同じように使いこなせる英語力のことなので、こちらの英語力は十分に実際の運用に耐えうるレベルの言語力であることは間違いないでしょう。
しかし、他方の「”日本語に依存する” 英語力」の方はどうなのでしょう。実際の運用に役立つのかと言えば、なかなかそこまで英語力を高めることが出来ないのが現状なのです。
ただし、ここで1つだけ付け加えておかなくてはならないことがあります。
「”日本語に依存する” 英語力」を実際の運用に耐えうるレベルの英語力まで突き詰めることが出来る天才達も少数ながら存在するのです。
先の大戦に負けるまで「英語」を始めとした外国語などは、日本人にとっては一部のエリート達のためのものでした。
江戸時代から幕府の蕃書調諸や適塾など、現在の東大や外語大、阪大の諸源流の学問所で外国語の研究は行われていました。そこには、日本全国から超が付くほどの英才達(一部そうでない人もいたようですが)が集っていました。
そんな彼らの中に、福沢諭吉や大村益次郎、西周や加藤弘之などなど明治期以降の開明日本をリードしていく人たちがいたわけです。そんな彼らは相当高いレベルの外国語を身につけていました。もちろん留学したわけでもなく、外国人の先生がいるわけでもなく、教科書もない時代すから、専門書の文法訳読を通して諸外国語を身につけたわけです。
つまり、超が付くほどアタマの良い人たちが一生懸命に勉強して漸く外国語は身に付くものなのです。もちろん、今日にも超が付くほどアタマの良い人たちはたくさんいます。そして、そんな人たちは留学せずに、独学である程度以上のレベル、例えば東大・京大に合格出来る程度以上の英語力を身につける事が出来ます。
繰り返しますが、超アタマの良い人たちだからこそ、外国語を身につける事が出来るのです。彼らは特段、留学や早期の英才教育やインターで教育を受けることなく、文法訳読方式で “日本語に依存する” 英語力を相当高いレベルまで育てることが出来ているのです。
そして、この少数の存在が厄介な問題を生んでいるのです。彼らは「学校英語でも英語は出来るようになる」実証なのです。そこで、「ほら、出来るようになる人もいるでしょう」「努力次第でしょう」という幻想を持つ人がうまれるのです。
繰り返しますが、超アタマが良い人であれば、文法訳読からかなり高いレベルでの “日本語に依存する” 英語力を身につける事が可能ですが、これは残念ながら我々凡人には到底かなわない夢なのです。
少し脱線しますが、そのような超アタマの良い人たちは何を持ってして彼らを「超アタマが良い人たち」たらしめるのかと言えば、答えは簡単。彼らの日本語の言語力です。
日本語の語彙が豊かで、さらにそれら豊富な知識という点同士を結ぶ線の役割を果たす文脈知識を持っているような人たちは、自分が使っている日本語の本質的な特徴を捉えることも出来ます(もちろん、そんなことは凡人には不可能です)。
そして、そのように超アタマの良い人たちにとって、英語の特徴を理解するなどお茶の子さいさい。中高レベルの英文法でヒイヒイ言っている子達を傍目に「何でこんな簡単なことが分からないのだろうね」と言った具合に、スラスラと英語を身につけていくのです。羨ましい話です。
もちろん、そんな高い言語能力を持っている人たちは総合的に理解力に優れているので、英語に限らず数学や物理なども楽々こなしていきます。
閑話休題。一部の天才たちに限定的な領域である「”日本語に依存する” 英語力」を運用レベルまで高めることは、半分諦めて、もう一つの夢の話をすることにしましょう。つまり、私たち一般人にでも習得可能な可能な「”自立した” 英語力」の話です。
凡人でも身につけられる自立した英語力
超アタマの良い人たちは文法訳読で良いのですが、それ程日本語の言語力に優れない凡人達にも一筋の光明はあります。
それは、「ヒトは言語を身につけるようにプログラムされている」コトです。
この点における言語学的知見に関しては、繰り返し本誌でも触れているので省きますが、常識で考えても、ヒトは誰でも言語を身につけるようにプログラムされていることは分かります。ほんの一握りの語学の天才が居て、文法訳読方式で外国語を身につけれる実証があるように、我々誰でも幼児期に、文法訳読とは無縁の学習法で母語を身につけてしまっているのです。
私たち人類が余すところなく持っている能力が言語の習得能力であり、逆説的には言語習得能力を持っていることこそが我々を人類を他の動物とは異なる存在たらしめている根源なのです。そして、私たちが押し並べて、ことばを習得する能力を持っていることの証拠は幼児期に誰もが母語を身につけてしまうことに留まりません。
我々の言語習得における能力は外国語習得にも等しく発揮されるのです。この点に関しての証拠も枚挙にいとまがありません。現に凡人代表である私もその生き証人の1人です。
随筆風に、、、
あれはまだ私が17歳だったとある冬の朝のこと。前日から降り積もった雪が晴れ渡った陽の光に照らされて、ただでさえ空気の澄んでいるアイオワの片田舎の空が一層青々と透き通って感じられるすがすがしい朝でした。
いつものように朝の支度を済ませ、いつものようにダイニングへ行くと、不思議なことにホストマザーやホストブラザーが日本語で話していたのです。そのまま皆の会話に耳を傾けつつ、朝食を済ませあることに気づきました。
彼らは日本語で話しているのではなく、英語で話していたのです。それどころか私までも普通に英語の会話に参加していたのです・・・
と、まあ、留学して4ヶ月ほど経ったある朝、本当に突然、英語がまるで日本語のように自然と頭に入ってきて、さらに頭の中で受け取ったメッセージがイメージに変換され、さらにさらに、それを英語で思考して、英語で口にするという一連のスピーチチェーン*(『パルキッズ通信2018年10月号』参照)が覚醒したわけです。
それまでは、相手の言うことを聞き取ることもままならず、日本語を通して理解し、思考し、英訳し口にするという日本語のスピーチチェーンの助けを借りて、今回のテーマの1つである ‘日本語に依存する’ 英語力だったわけですが、それが、一夜にして ‘自立した’ 英語の回路に切り替わったのです。
それ以降は、分からない語を辞書でひくことは多々ありましたが、基本的には理解出来なければ、どういう意味なのかを相手に尋ね説明してもらえば事足りる、というとても自由な英語での生活となりました。
どうやら、思考に関してもその頃から英語で行われるようになっていたようです。ホストマザーが帰国を控えたある日、「ひろしは冬頃から英語で寝言を言うようになったからどんな夢を見ていたのか分かる」旨のことを私に伝えてくれました。
夢の内容を口にしていたのかと思うと、恥ずかしい限りですが、これも夢の中でも英語を思考の言語として使っていたのか、と思われる傍証の1つでしょう。
このように、凡人の代表である私ですら4ヶ月も英語漬けになると、「 ‘自立した’ 英語」力を身につける事が出来たのです。
もちろん、私に限ったことではありません。私と同機の留学組は一機丸ごとチャーター便で帰国しましたが、その機内たるやさぞや日本語と英語が入り交じって飛び交う異様な空間だったことでしょう。
帰国直後も友人と話しているときに「英語で話すなよ」と指摘されたことがある程に、果たして今日本語で考えているのか、英語で考えているのか境界がハッキリしない現象が、僅かな期間ながら続いていたようです。
‘自立した’ 英語力に必要なのはシンタクスとレキシコン
既に身につけている ‘自立した’ 日本語回路の他に、もう一系統 ‘自立した’ 英語回路を持つというのは、日本語話者における日本語と同じで、寝ている間にも呼吸出来るのと同じように無自覚で日英の両方を使いこなせることなので、その自覚は難しいのですが、一口に言うと「文法ではなくシンタクス、辞書型語彙ではなくレキシコンを持つこと」となります。
あまり煩雑にならないように簡単に説明すると以下のようになります。
ここで言う文法とは学校文法と同義と考えて差し支えありません。現在形の場合には動詞は人称と数の情報を表す形態素([z]; [s] or [iz])を付けたり付けなかったりします。日本語は人称や数で動詞が屈折することがないので「英語って厄介だな」とと感じるかも知れません。
さらに、時制も過去や分詞を表す形態素([d]; [t] or [id])を付けたり付けなかったり、あるいは母音交替(/rʌn/, /ræn/, /rʌn/など)で表します。また進行や完了などのアスペクトや受動や能動などの態、さらに重文や複文へと複雑を増します。
とは言っても、英語は極めてシンプルな構造を持っていて、かなり複雑な日本語を話している我々にとっては楽な言語のはずです。ところが、この程度の文法項目ですら、分からない人が少なくないのです。これは、既に述べたように、言語というのが文法から学ぼうとすると相当アタマの良い人でなければ身に付かないほどムズカシイものであることを意味します。
また、既に触れたように、日本語は英語に比べて相当複雑怪奇な文法の様相を呈しています。主語がなくてもよく、逆に動詞の活用は複雑を極めます。学生時代に文語文法で頭を悩まされた方も少なくないでしょう。
文法を覚えるのは中学生でも大変。大人でも、我が子に文語文法を説明出来るかと問われれば、自信をもって「応」と答えられる人は限られているでしょう。
しかし、そんな複雑怪奇な文語文法を知らない幼児でも、動詞の活用を迷うことはありません。それは偏にシンタクスの知識を持っているからなのです。シンタクスとは「統語論」などと呼ばれる、語や形態素(英語では複数や三単現のsや日本語の助詞など)をどのように並べるかの規則のことです。
日本語のシンタクスを私たちは幼児期に身につけているので、文語文法などを習う前から、正しく日本語を書いたり話したり出来るのです。
次に語彙ですが、日本人が持っている英語の語彙は辞書型語彙とでも呼べるようなものです。表には英単語、裏面には1つか2つの日本語訳を記してある単語帳的な語の集団です。 ‘日本語に依存する’ 英語力を身につけるための文法訳読式では、この辞書型語彙が必要で、誰もがせっせと学生時代に覚えることを強いられるわけです。
他方のレキシコンはちょっと違います。私たち日本人が「猫」とか「食べる」と目や耳にしたときに思い浮かぶ「猫」や「食べる」は十人十色、千差万別です。「これ」と特定出来ない、その人個人のその語に関する「イメージ」のようなものです。
従って英語のレキシコンを持っているというのは、’cat’ が日本語の「ネコ」という文字や音の情報と紐づいているのではなく、’cat’ が直接「ネコ」のイメージと結びついているような語彙を持っていることとなります。
因みに、名詞や形容詞は日本語と英語で共通しているものが少なくないので、わざわざ日本語に訳すまでもなく、英語のまま理解することも難しくはありません。なかなか身に付かないのはレキシコンの中でも動詞や副詞です。これに関しては『パルキッズ通信2020年9月号』参照。
少しややこしい話になりましたが、まとめてしまうと、 ‘日本語に依存する’ 英語力は文法と辞書的語彙を拠り所にしている一方、’自立した’ 英語力はシンタクスとレキシコンを身につける事が必要である、ということになります。
それでは、その英語のシンタクスとレキシコンはどのようにして身につける事が出来るのでしょうか。これも一口に言えば「インプット」となりますが、以下に見ていくことにします。
質・量共に十分なインプットが出来ているか否か
「’日本語に依存した’ 英語力」と「’自立した’ 英語力」は同じ線上にはありません。つまり、上段で述べた様な一部の天才を除けば、文法訳読型の勉強をいくらしたところで、英語のシンタクス・レキシコンの習得には至らないというのが、残念ながら本当のところです。その理由は極めて簡単。従来の文法訳読型の学習では決定的に「インプット」が量・質の両面に於いて不足しているからです。
‘自立した’ 言語力を身につけるには適切な量と質の「インプット」以外に道はないのです。
これは、英語を身につけるのに成功した人達と英語を身につける事に成功していない人たちを見比べれば、分かります。
繰り返しますが、一部の超アタマの良い人たちを除けば、英語を身につける事が出来る一は限られています。『パルキッズ通信2020年1月号』でも述べましたが、日本人で準1級以上を取得している人たちと英語圏への留学生の数がほぼ一致していること、また、留学すれば少なくとも準1級以上の英語力を身につけることは可能なこと、さらに、留学して英語を身につけた学生も大学入試では英語力の証明が必要なことから英検などを受験することが考えられる点などから、総合的に予測すると、日本で英語が出来る人=英検準1級以上取得者=英語圏への留学生の図式が当たらずとも遠からず成立すると言えるでしょう。
もちろん、彼らは留学する以前から人並み以上には ‘日本語に依存する’ 英語力を持っているはずです。しかし、彼らのその ‘日本語に依存する’ 英語力が ‘自立した’ 英語力へと昇華するとは一概に言えないのです。それどころか、否定的です。
これに関しては「インプット仮説(Krashen 1985)」あるいは『パルキッズ通信2016年1月号』を参照のこと。
また、私自身の ‘自立した’ 英語力習得の経緯や感覚から思い返しても、どうしても学校英語の上に今の英語力が成立しているとは考えにくいのです。言語学を少しはかじった今、留学時代を振り返って考えると、自分が習得した英語は学校英語とは全く別の、既に述べたところのシンタクスとレキシコンを備えた英語力であると考えるのがスッキリと腑に落ちるのです。
では、どのようにしてそのシンタクスとレキシコンを習得出来たのかと言えば、留学生活の中で、学校では英語で行われる歴史や数学、コンポジや体育などの授業、放課後の陸上やレスリングなどの部活動で繰り広げられる量として大量の、同時に質としてはネイティブの先生や級友達による良質の英語のインプットがあったからと考えられます。
ただ、耳で聞いていれば良いのかというと、これもはなはだ疑問が残る点です。ただアメリカにいるだけで、英語を身につけられない語学留学生も多多居るわけです。そこで、なぜ彼らは英語を身につけられず、高校での留学生は英語を身につけられるのか、あるいは大学院での留学生は英語を身につけられるのかを考えると、読書量という変数に突き当たるのです。
つまり、交換留学生や大学院生などは、大量の宿題、つまり読書が強いられるのです。おそらく、この英書の読書が耳からのインプットと同時に目からのインプットとなって、英語のシンタクス・レキシコンの習得に有利に働くのでしょう。
これは、事実を捉えていて、この日本に於いてすら大学院へ進めば、学生達は英語の教科書や論文を片端から読まされるので、英語を日本語に訳さずに理解する ‘日本語に依存しない’ 英語力を身につけます。
このように、耳から、あるいは目からの量・質ともに十分な「インプット」が成されることが、’自立した’ 英語力の習得と繋がっていくのです。
インプットの視点で学習法を判断する
さて、今回は ‘自立した’ 英語力と ‘日本語に依存する’ 英語力について主に書いて参りました。従来的な文法訳読方式では深い思考のベースとなる日本語の能力に突出している人でなければ、十分に満足のいく ‘日本語に依存する’ 英語力を身につける事は困難であることは分かりました。
また、 ‘自立した’ 英語力の習得は英語のシンタクスとレキシコンの獲得をベースとして書くことが出来ず、シンタクスとレキシコンの獲得には、目と耳からの十分な量・質の英語の「インプット」が必要であることも分かりました。
そのインプットメソドで英語を身につける人たちにとっての英語は空気のようなものなので、英語を身につけたと言っても、習得した英語力を自覚することは出来ません。また、親の目にも、我が子の英語習得の本当のところは表面的には分かりません。
ただし、「ヒトは言語を身につけるようにプログラムされている」のです。つまり、日本語を身につけている子どもであれば、英語を身につける事も出来るのです。さらに、留学生の事例からも明らかなように、高校生以降の年齢になってしまっても、インプットから英語を身につける事は出来るのです。
それらの事実を合わせ考えれば、幼児期に運良くパルキッズに巡り会うことが出来て、インプットによる英語学習をスタート出来たのであれば、全ての子は余さず英語を身につける事が出できます。
幼児、小学生、あるいは中学生以上にインプットメソドを実践する詳細に関しては拙著「子どもの英語「超効率」勉強法」に詳しく書いてあるので、そちらの参照をお勧めいたします。
インプットメソドで、早い段階で英検の準2級の取得を目指し、高校入試、大学入試、あるいは社会に出てから英語で困ることがないような子育てをするご家庭が一件でも増えることを願ってやみません。
【編集後記】
今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
★外国語習得に成功するたったひとつの方法
★留学生に起きた魔法を家庭で起こす
★訳さないのが英語力?!
★だから英語がわからない!
★アウトプットとストレスの関係
【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)
児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。
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引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2012/
船津洋『インプット方式で「”自立した” 英語力」の習得を』(株式会社 児童英語研究所、2020年)