パルキッズ通信 特集 | 国語力, 大量インプット, 英語教育, 語彙, 論理的思考力
2021年2月号特集
Vol.275 | 理解力・思考力・表現力の高い子を育てる簡単な方法
乳幼児期からの国語教育という視点から見える日本人の国語力の弱さ
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2102/
船津洋『理解力・思考力・表現力の高い子を育てる簡単な方法』(株式会社 児童英語研究所、2021年)
例えば、小さい頃にたくさんの絵本に触れた子とそうでない子では、ことばの能力に大きな差が付きます。幼児期の言語発達の指標に照らすと、大量の絵本に触れた子は年少前(2歳~3歳)の段階で早くも平均的な年長児(5歳~6歳)並みの語彙を持っていたりします。
語彙は言語生活を送る上で、身の回りの世界の理解、思考・判断、そして表現の幅を決定する重要な要素です。語彙に乏しいということは、それ自体が情報インプットのフィルターになってしまい、世の中にあふれている情報の洪水から知覚できる情報を制限します。
また、せっかく取り入れた情報を正しく評価するには、それを可能にする豊かな語彙は当然のこと、加えて健全な論理思考が必要となります。そして、もちろん、思考の結果得られたコンテンツの表現の幅も語彙によって相当上下します。
つまり、語彙が乏しければインプット、アウトプットの両面において、豊かな語彙を持っている人に及ばないのです。また、インプットとアウトプットの間にある思考・判断に関しては、語彙の豊かさだけでなく、健全な論理思考も必要となるわけです。
今回は、ヒトの言語生活の質を決定する2つの要素である、語彙と論理思考のあり方について考えることにしましょう。
知らないものは見えていても知覚できない
まずは、語彙から。
語彙はヒトの言語生活の質に大きく影響します。その語彙というひとつの集合体の中を覗いてみるとそこには語や句などの多様な概念がその音の情報などと共に詰まっています。語彙が豊かであるということは、多くの概念を持っている。つまり知識が豊かであるともいえます。
「知らないものは、世の中に存在しないと同じ」
知っているから、その概念が世の中に存在するものとして知覚・理解できます。
例えば、家屋の屋根の形状には、切り妻、寄せ棟、入母屋などがあり、お城を見れば唐破風や千鳥破風など特徴的な形状が見て取れます。しかしその知識が無ければ、それらはすべてただの「屋根」に過ぎません。
釣りをする人にとっての無数にある仕掛けも、釣りを知らない人にとってはただの「針と糸」でしょうし、道路標識も免許を持っていない子どもにすれば何かの「記号」に過ぎません。調味料もしかり、知らない人にとってはインド料理に使う数十種類ものスパイスも「カレー粉」とか「ガラムマサラ」程度にしか知覚できないのです。
また、話し言葉に関しては、分節音と呼ばれるヒトが音声として発する母音や子音の分布、またアクセントやイントネーションなど、言語に特有のメロディーに関する様々な概念があります。その知識があれば、外国人の話す日本語の、また日本人の話す英語のどこが具体的にどう違うのかが分かります。しかし、その概念を持っていなければ「なんとなくヘン」としか分からないのです。これは「勘」の世界です。こんな人から発音を学ばない方が賢明です。
このように、世の中は語(概念)に代表される無数の知識で成立しています。知識が多ければ、知覚・理解できる情報は多くなります。つまり、世の中がよりクッキリと見えるのです。多くを知っていれば一片の風景から数多くの情報が得られます。
しかし、逆に知識に乏しければ、新聞やテレビのニュースから流れてくる情報は音は分かっても理解できませんし、街中の風景から取れる情報も限られているのです。
語彙を膨らませること、豊富な知識を持つことが、よりよく世界を理解することの入り口であることに関してはご賛同いただけると思います。
それでは以下、知識と思考の関係、さらにはそれら知識と論理思考力の育て方を「日本語と国語の対比」を軸に展開することにしましょう。
日本語を半分しか理解できない高校生?!
先日第1回目の「大学入学共通テスト」が行われました。英語の技能の配点が大きく変わり、文法項目が姿を消すなど英語科においては、ずいぶんと思い切った方向転換が行われているという印象を受けました。
英語の話はさておき、国語に目を移しましょう。センター試験における国語科の平均点は英語より低く、数年来50~60%で推移しています。内訳は、現国(現代文)は65%程度、古文漢文が30%ほどです。
漢文は外国語に少し似ていて、古文も現代文とは勝手が違うので、それらの点数が低いのは、ここでは大目に見るとしましょう。しかし、高校3年生の受験生たちが、彼らが普段使いしている日本語の能力を測られる現国において6割そこそこしか正解できないということは、どう理解すれば良いのでしょうか。
加えて言えば、彼らは大学を受験する、つまり比較的勉強が得意でかるか、あるいは少なくとも高校卒業後も勉強を継続しようと志している学生たちです。その優秀な(?!)学生たちの現国の平均点が6割そこそなのですから、大学受験をしないすべての高校生の国語のレベルはそれ以下と見積もって間違いないでしょう。
仮にすべての高校生3年生が共通テストを受験して、現国の平均点が5割だったとしましょう。その程度の国語の理解力しかないのであれば、そんな彼らが、世にあふれる音声や文字からの日本語情報をどれだけ知覚し、正確に理解して、どのように思考して結論に至り、持論をアウトプットできるのか。そのレベルを考えれば心細くなってしまうのは私だけでは無いでしょう。
日本におけるアンケート調査に特徴的な「わからない」という選択肢は、そんな彼らが “大人になったとき” のためにあるのかも知れません。そもそも質問事項に関する知識が無いのか、理解できないのか、まともに思考ができないのか、それとも答えたくないだけなのか、あるいはそのうちのどれに該当するのかも「分からない」のかもしれません。
なぜそのようなことが起こり得るのでしょうか。なぜ日本の高校3年生は国語力が弱いのか、そのあたりをもう少し掘り下げて見ていくことにします。
日本語はできても国語ができない
さて、前節では「日本語」と「国語」と分けて記述してきました。ここで念のため、それぞれの定義を辞書にあたっておきましょう。
にほん‐ご【日本語】: 日本の国語。(デジタル大辞泉)
これだけではよく分かりませんが、広く一般に日本人が日本国内で話す言葉を指すようです。それでは、国語の方はどうでしょうか。
こく‐ご【国語】:1 一国の主体をなす民族が、共有し、広く使用している言語。2 日本の言語。日本語。3 「国語科」の略。(デジタル大辞泉)
「大学入学共通テスト」でいうところの「国語科」という意味合いも含まれます。そしてその「国語科」とは。
こくご‐か〔‐クワ〕【国語科】: 学校の教科の一。国語の理解・表現などの学習を目的とする。
一般に「国語」と言うとき「日本語」と同義と考えて良さそうですが、本稿では限定的に「国語科」の略の意での「国語」を念頭に書いています。ここで「日本語」というときは私たちが普段使っていることばのことで、「国語」というときは日本語の理解・表現などの学習を目的とする教科の意味とご理解戴ければ結構です。
つまり、私たち、大人から子どもまで日常的に日本語を使っていますが、その日本語の様々なレベルが国語力ということです。
そして、学生ひいては日本人全体の国語力にどうやら何か問題があるのではないか、という疑問が湧くのです。
日本語の環境に生まれ育てば、どんな子でも日本語を身につけます。ここには、本誌でも繰り返し述べているところの「幼児期特有の言語習得能力」が働いているので、特段言語能力に優れた子でなくても、日本語は身につけられます。
しかし、国語力は別です。何らかの積極的な学習が行われなければ、その能力は伸びません。学校教育の国語科がその代表格です。しかし、学習の成果を見ると心細くなります。小学校から高校まで国語科で一体どれだけの時間が費やされているのか計算するのも興ざめですが、それだけの時間を費やしながら、集大成の大学入試の時点で、得られる結果は50点なのです。
しかし、国語ができないことを、本人の能力の問題に帰するのはあまりにも残酷に過ぎます。なにしろ、小中高と学校だけでなく、塾や宿題などの時間まで考えれば、子どもたちは相当な時間を国語の勉強に割いているのです。それを「努力が足りない」のひとことで済ますのは、大人の健全な思考ではないでしょう。
では、教える側の問題かというと、そうでもないと思います。国語が苦手な子がいる一方で、学校教育だけで優れた国語力を発揮できる子たちも無数にいるのです。みんながみんな揃ってできないのなら、それはそれで問題ですがもう諦めるしかありません。しかし、「できる子がいる」ことが一筋の光明です。
国語ができないことは、国語の問題では済まされない
結果として、冒頭のようなことが起こります。つまり、「平均的」な年長さんの国語力に対して、年少前の段階でそれに追いついてしまっている子がいるのです。
この「平均的」というのは、とても危険な概念です。同調圧力が高い日本社会では平均的であること、目立たないことは、美徳のように感じられます。しかし、平均的であるということは、国語力においてはセンターで50点しかとれないことを意味します。
将来進学を志しても、この段階で、もはや大学の選択肢は大幅に狭まっているのです。
最近の大学生を見ていてつくづく思いますが、彼らは国語力を磨いていない。例えば、個人的にお世話になっている上智大学レベルではそんな子はいないかと思いきや、そうでもありません。英語の上智ですので、英語力だけで合格できてしまいます。結果として国語力がお粗末な子はわんさといます。
もっとも、そんな学生たちも、国語の代わりに十分に通用する英語力を持っていれば良いのですが、留学組などは英語力もそこそこ、国語力もそこそこというのがいないわけではないのです。ちょっとましな中学生でも、もっと上手に国語を使いこなせるのでは、と訝ることもありました。
上智でそれですので、イマドキの若者コトバだけで何となくやり過ごしてしまうような大学生は、日本中にあふれかえっているのではないでしょうか。
こんな調子ですから、国語力を伸ばそうと、学校の先生がいくら頑張っても一筋縄ではいかないでしょう。本人が「よし国語力を磨こう」とでも自覚すれば話は別です。しかし、小学校の国語の教科書レベルが理解できないようだと、本人の努力だけでは限界があります。
そろそろ「他の教科が得意であれば、国語ができなくても良いじゃないか」という声が聞こえてきそうですが、話はそう簡単ではありません。国語ができないことは、国語だけの問題では済まないのです。
国語力が低ければ、他の教科の習得も足を引っ張られることになります。社会科の教科書を読んでも、概念が理解できない可能性があるわけです。そして「丸暗記」となります。この流れは長く学校教育の弊害扱いされてきました。
このように国語力が、人文科学系の学問と直結するのは感覚的に理解できると思います。
しかし、数学や理科など一見国語とは関係なさそうな教科も、語彙・論理思考の国語力2点セットのうちの1つである「論理思考」は必要となります。つまり、人文科学系のみでなく、自然科学を学ぶ上でも国語力は欠かすことができないのです。
このように、個々人の国語力は、国語科に限らず他の教科に習得にも影響を及ぼします。そして、多くの国語力に乏しい学生と、国語力に優れた一部の学生が混在していることが、今日の大学入試試験の結果に表れているわけです。
それでは、国語に優秀な子と、そうでない子を隔てているものは何でしょう。大して勉強もせずに国語ができる、国語力に優秀な一部の子が持っている資質とは何なのでしょうか。
遅すぎる国語教育のスタート
結論を言えば「国語教育のスタートの時期の違い」と私は考えています。
そもそも、小学校の教科書の内容くらいは理解できる程度の国語力を、小学校入学までに身につけていれば、国語科で苦労することはないはずです。
国語力の高い子の育つ環境では、早い段階から何らかの形で国語教育が行われていて、そうでない子の成育環境では、標準的な「日本語」の発達に安心して(あるいは日常の日本語の使用にかまけて)「国語力」を高めることに、然程意識が向かっていないのでしょう。
そのように、乳幼児期に国語に関しては放置されていた子が、小学校に入っていきなり教科書を与えられても、それをすらっと理解できないのは当然でしょう。それゆえ、ほとんどの子どもたちが国語が苦手であり、結果として勉強全体にもマイナスの影響が波及するのです。
「幼児期に国語教育?」と、感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、机に縛り付けて、文字を教えたり、プリントをさせなさいと言っているわけではありません。
「日本語」は、日常使いのレベルではすでにマスターしているので、それを「上達させよう」という意識は上がってきません。しかし、「日本語ではなく国語力を高めるのだ」と視点を少し変えれば、普段使っている日本語のやりとりも、理解・表現力のトレーニングの一環として位置づけることができます。
「語彙(や知識)を膨らます」ことと「論理思考を身につける」こと。以上の2点をセットにして、小さいうちから国語教育を実践すれば、少なくとも小中高の国語科で苦労することはなくなるでしょう。当然の結果として、たかがセンター試験で50点ということはなくなるでしょう。
そして、おそらく、何らかの形で上記2点セットを満たす国語教育が、生育環境において整っていた子どもたちが、特に勉強しなくても国語で高得点が取れるのでしょう。
しかし、日本の教育制度では、小学校入学までにそのような国語力を鍛えるシステムは用意されていません。
さすがに最近ではそんなことはないのでしょうけれども、四半世紀前までは「小学校に入るまで、かなや漢字は教えない」という指導も一部で行われていたと聞きます。また、世の中にはいろいろな意見の人がいて、「幼児期に言語力に優れていても、小学生になればその差はなくなる」などという論文も見かけたりします。
ポイントは家庭学習
他人は他人ですし、意見を持つことは自由です。しかし、こんなことを言ってはなんですが、人文系の論文には、どうもデータの取り方自体に問題があるものもしばしば目にします。完全中立な論文も難しいですが、あからさまにバイアスが見て取れるような論文を見ると「健全な論理思考ができていないなぁ」と感じてしまいます。なぜなら、現に小中高の学生たちの国語力には、大きな差があるのですから。
早期からの国語教育をしないのが、今日の日本の教育制度です。そして、その結果がセンター試験で50点であることは、しつこいようですが付け加えておくことにしましょう。
誤解を避けるために、さらに付け加えておきますが、これは決して世の中に数多ある早期教育を受けさせなさい、と言っているわけではありません。
別段、学校以外の教育を受けなくても、国語に優秀な子どもたちはたくさんいます。そして、そんな子たちは、国語以外の教科にも能力を発揮し、結果として超難関大学にもスルッと入学できたりします。
それらの国語に優秀な子どもたちに共通するポイントは、家庭内での国語教育だと考えます。
親がそれを「国語教育」と自覚しているか否かはどうでもよろしい。おそらく、国語力に優れた子を育てる多くの親御さんたちは、それが「国語教育である」とは自覚していないでしょう。
しかし、たくさんの絵本や物語に触れさせたり、語りかけや親子の会話が豊富であったり、様々な体験を通して物事の理を身につけていく教育をしていれば、結果として、それらは「語彙力・論理性」を育てる立派な国語教育なのです。
質・量共に優れたインプット
では、具体的にどのようにして家庭内で国語力を高めればよいのでしょう。考えるに、ポイントは以下の2点に絞られます。
質・量共に優れたインプット。
(英語の場合にはこれに「正しい方法」が加わる。『「インプット」で英語教育を考える理由』(パルキッズ通信2019年12月号)参照)
子どもたちが単に日常会話レベルの「日本語」を身につけるにおいては、親は特に何も気をつける必要はありませんでした。自然に日常生活を送るだけで十分でした。
しかし、「国語力」を身につけるとなると話は別です。自然な日常会話だけでは、満足な国語力は育っていかないことが多いのです。
親が気をつけるべきことは、日々の語りかけの質が満足なものか、という「質」に関する点と、日常会話の語りかけだけでは絶対的に不十分なインプットの「量」をどのように補うか、この2点です。
希に高い質のインプット、あるいは大量のインプット、またはその両方を実践している親御さんも見かけます。しかし、共働きが当然で、両親ともに忙しい現代の社会生活の中では、質・量共に優れたインプットが困難であるのが現状でしょう。
そんな日常において、「国語」教育を意識しなければ、育児に慣れてくるに連れて、次第に子どもに対する発話の質は雑に、量は乏しくなりがちです。よく言えば「阿吽の呼吸」、文化的には「ハイコンテクスト」と分類されますが、国語教育としては「インプット不足」なのです。
また、日常的に姉弟間、友人間で交わされるような会話スタイルを育児に持ち込んでも、それは質・量共に国語教育としては十分とは言えません。
質・量共に優れたインプットを実践するためには、親がいくつかの習慣を心がける必要があります。
「最大の敬意を払い」「より多くの情報を与え」「より正確に子ども理解する」姿勢がポイントです。
この点に関しては、『ことばを伸ばす親の話し方』(パルキッズ通信2020年7月号)で詳しく述べていますが、要約すると以下のようになります。
「最大の敬意を払う」ことによって、親子の会話が雑になることを防ぎます。子どもとの会話は気づけば上から目線で命令ばかり、などということになりかねません。しかし我が子を子どもと思わずに、上司や老人と思って丁寧に話しかければ、自然と会話の質も高まります。
「より多くの情報を与え」るには、使い古された用語ですが、親子間の「ホウレンソウ」や絵本が威力を発揮します。親子間で報告・連絡を密にするような切っ掛け作りをすれば、相談のシーンも増えることでしょう。また、ネタに困った時には絵本を活用すれば、大量のインプットは比較的簡単に達成できます。この絵本に関しては『言語力の差を決定づける幼児期の絵本の与え方』(パルキッズ通信2020年6月号)をご参照ください。
さらに「より正確に子どもを理解する」ために、子どもの発言の真意を探ることも大切です。子どもの発言を聞き流さずに、なぜそう思ったのか、なぜそう感じたのかと掘り下げていくのです。これは後述しますが「論理思考」のトレーニングにも繋がります。さらに詳しくは拙著『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)の第七章を参照のこと。
「日本語」から「国語」へと視点を移すこと、そして、親側の日常の言語使用のシーンにおける習慣を少し見直すこと。これによって、家庭内でも充実した国語教育が実践されることとなるのです。
さて、ここまでは国語教育の両翼の一端である「語彙」を豊かにする点について、主に書いて参りましたが、次にもう一端を担う「論理思考」について付け加えておきます。
為しても成るとは限らない
「為せば成る為さねば成らぬ」云々と上杉鷹山が詠んだそうです。
この歌を聞いて「やればできるんだ!」と元気づけられた人も少なくないかも知れませんし、私自身にも「ふーん、やればできるんだ」と漠然と感じていた若かりし頃もありました。
二句目の「為さねば成らぬ」はふむふむ、確かにその通り、物事やってみないことには始まらりません。これは理にかなっています。つまり論理的。
しかし、冒頭の「為せば成る」はどうでしょう。果たして「やればできる」のでしょうか。
そんなことはありません。事の難易はありますが、やってみてもできないことの方が圧倒的に多いのではないでしようか。冒頭の句は精神論としては興味深いですし、やる気を鼓舞することばとしては意味があるのかも知れませんが、少なくとも論理的ではありません。
また、「他人を変えることはできないが、自分を変えることはできる。そして自分が変われば人が変わる」などということもしばしば耳にしたり目にしたりします。
これも前半はある程度論理的です。他人を変えるのは難しいですが、変えられないわけではありません。しかし、自分を変えることは可能です。ところが、後半部分に関しては論理が飛躍しています。確かに当方の雰囲気が変われば、先方の接したかも変わる可能性が高いのですが、あくまでも可能性の話です。心理学としては興味深いのですが、論理的ではありません。
少し面倒な話になってしまいましたが、このように考えるのが論理的と言うことでしょう。
論理的であることを好む英語
以下の点に関しては主観的な印象ですが、どうも日本語話者はことばのインパクトやリズムを好むがあまり、論理性にはあまり関心が向かないようです。これは日本人の国語力の問題や素直な国民性にも原因がありますが、ひょっとすると日本語自体が持っている特性なのかも知れません。
ところが、英語はそうではありません。例えば鷹山の歌を直訳して ‘You can accomplish anything if you do it.’ とやると、どうも据わりが悪い。英語話者の端くれとして、どこかむずむずします。「やったら何でもできる」って言われてもねぇ、と感じてしまいます。
ところが、これが同文の翻訳版である ‘Where there is will, there is a way.’ となると話は別です。直訳すると「意思があれば方法はある」となります。この情報が入ってきたら「まぁ、それはそうだな」とか「やる気が有りさえすれば、その手段の是非、成否は別として、何かやり方は見つかるだろうな」と納得します。
日本語は論理の飛躍を、言葉の持つインパクトで覆い隠してしまう、つまり煙に巻くことができるのですが、英語は日本語と異なり論理の飛躍を許しにくい性質を持っているように思われます。
現に私自身が日本語で書いた文章を英語に訳すと、ところどころ、ひどいときにはパラグラフ毎論理が飛躍していたりします。普段から論理的であるように心がけているのですが、気を抜くとひょいとロジックが抜けてしまったりするのです。
ところが、その同じ頭を使っても、和文英訳ではなく、はじめから英語で書くと様子が違うのです。段階的に一文ずつ理にかなった様式で繋げていくので、論理が飛躍しにくいのです。
上記はあくまでも個人的な印象と断っておきますが、やはり英語ができることが思考の論理性と何か関係があるように思われます。
まずは国語教育と英語教育の二本立てで
さて、今回は日本人の国語力が低いという話でした。その国語力の低さを具体的に認識するためには、普段使いの「日本語」を「国語教育」という視点で観ることが重要であることを述べました。
さらに「国語教育の開始が遅い」ことによって、理解力が育たずに、小学校に入ってからの国語科に限らず他の教科にもマイナスの影響を与えかねないことも分かりました。
国語教育は、特別なことをするまでもなく、家庭でも語彙と論理思考の2つのポイントを軸に行えること、その実践においては親の言語習慣を見直すことも重要なポイントである点、インプットの量を増やすためには絵本の活用が効果的であることにも簡単に触れました。
その他、論理思考に関して、また英語を身につけることが論理思考の涵養のヒントとなる可能性も個人的な経験から述べさせてもらいました。
世の中をより正確に理解するためには、より多くの情報をより正しく知覚し、その情報を理解・判断する必要があります。それに加えて自分の考えを表現するという、それら一連の日本語の言語生活をより充実したものにするためには「国語力」を伸ばすことが不可欠であることは、理に適っているのではないでしょうか。
さらに日本語という限定的な言語社会の限られた情報だけでなく、より多くの情報を知覚するためには英語が必要であることは言うまでもありません。
英語は『パルキッズ』や英語絵本の『アイキャンリード・アイラブリーディング』に任せて、各ご家庭の国語教育をひとつ頭の片隅において日常を送っていただければ幸いです。
【編集後記】
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児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。
船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。