パルキッズ通信 特集 | 国語力, 学校英語教育, 日本の教育, 英語教育, 論理的思考力
2021年7月号特集
Vol.280 | 風が吹けば桶屋が儲かる
英語ができると理系に強くなれる「原因と結果の法則」
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2107/
船津洋『風が吹けば桶屋が儲かる』(株式会社 児童英語研究所、2021年)
国語力と英語力は関係があるのか?
20年ほど前のこと、「小学校の英語導入」に関して、政治家やいわゆる有識者たちから「英語より国語だ」という反発がかなりあったことを記憶しています。しかし、他方「いやいや、使える英語を教えてください」という圧倒的な世論があり、それに勇気づけられてかどうか、なし崩し的に小学校で英語がスタート。いつの間にか高学年から中学年に前倒しされ、気づけば評価対象教科となり、あれよあれよという間に中学受験にも「英語」の時代となる下準備が整って、今日の小学英語があります。(『パルキッズ通信2018年2月号』参照)
個人的には、早い段階での英語教育には賛成ですが、英語を「使うこと」に重きを置いた教授法の指針には大反対です。(『パルキッズ通信2020年5月号』参照)しかし、まぁ、お上が決めたわけですから、彼らの気が変わるまでは、しばらくこの状態が続くことは覚悟しなくてはいけません。
さてさて、様々な課題は孕みつつ小学校中学年からの「英語」が本格化するわけです。しかし、冒頭の「国語」との関係はどうなるのか、という問いは未だ宙ぶらりんのままです。
「英語より国語でしょう」などという意見を聞けば「ふむふむナルホドねぇ」とそのまま真に受けてしまう、ナイーブな日本人も少なくありません。現に街ゆく人へのアンケートで、政治家の口から出た「英語より日本語」的なコピペを耳にするたび陰鬱な気持ちになります。
さて、「英語より国語」議論。結論から申しましょう。この一文は前提からしておかしい。そして、前提がおかしければ、論理も何もあったものではない。つまり、小学校英語に対して反対するにおいて「国語」を引き合いに出すのはそもそもの間違いです。なぜか。
日本人の国語力に問題があるのは事実です。
しかし、国語のコマ数を減らしてまで、英語をねじ込んだわけではありません。日本人の国語力に問題があるのならば、それは英語を勉強させているからではなく、国語科の教授法の問題でしょう。
これほど単純な図式ですが、なぜ「英語」が「国語」と対比され、終いには目の敵にされるのか理解に苦しみます。英語に対して、何か恨みでもあるのかと訝ってしまいます。
しかし、「英語より国語の方が重要」であることも同時に正です。従って「英語より国語」派の方々が、「英語の時間を削ってでも、国語をもっと充実させよ」と主張するならば、それには一理も二理もあるでしょう。ご意見拝聴したいところです。
たしかに、日本人の国語力低下は大きな問題です。「英語より国語でしょう」という意見も、日本人の「国語力の弱さ」あるいは「健全な論理的思考力の脆弱さ」を危惧しての発言と思われます。最近日常的に目や耳にする、学生あるいは社会人たちの日本語を評価すれば、「うーん、このままで大丈夫か」とこの国の未来を憂える人は少なくないことでしょう。
ということで、ひとつ目の結論です。日本人の「国語力には問題があり」ます。
そして、国語力に問題があることが、実は日本の国力そのものを脅かす脅威となっているのです。資源に乏しい日本の唯一誇れる資源とは “人” です。その人を人たらしめるのは「言語力」、特に母語による情報収集、思考、発信の一連を司る国語の能力です。
その根っこの部分となる国語の能力が低いということは、ありとあらゆる分野の発展の足を引っ張ることになります。
優れた発想に乏しく、ITにおいても新しいテクノロジーにおいても世界に後れを取っているなどと国内外から揶揄される日本です。その遠因を、社会学的な構造や日本人の気質、あるいは理系離れやIT教育の遅れなどに求める議論もあります。しかし、もっと単純なところに「世界に羽ばたけない日本人」の原因があると、私は考えます。
つまり、国語教育の機能の問題。そして、国語がうまく行かないので、算数も理科社会もうまく行かない。そんな図式が見えてくるのです。
逆に、国語ができると社会科ができる。そして、算数と理科もできるという関係性も、様々なデータから分かっています。また、そこから一歩広げて、英語ができると国語ができるという可能性すら見えてくるのです。
さて、今回は、「風が吹けば桶屋が儲かる」風の一見無関係なことどもが、実は因果で結ばれているという、それら教科間の関係性を、具体的に見ていくことにしましょう。
国語ができると理科ができるワケ
おそらく多くの自然科学の学者たちには、算数や理科という教科に触れつつ、あるいは様々な物理現象を眺めつつ、想像を巡らせ夢想していた幼少時代があり、それが彼らをして様々な研究に没頭せしめ、人類を一歩進める成果を生むに至らせたことでしょう。
さて、それでは、なぜ国語ができると理科ができるのでしょうか。
世の中には国語が得意な子もいれば、算数が得意な子もいる。国語が苦手でも、英語や化学が得意な子もいるでしょう。このように、教科の得手不得手は、一見すると子どもの個性や、教科との相性、あるいは先生との巡り合わせや、本人の興味などの要素で十人十色の様相を呈しています。言ってみれば、とある教科を “偶然” 好きになったり、得意になったりすると漠然と受け止める向きも少なくないでしょう。
しかし、少し科学すれば教科間の関係性が見えてきます。
一般に国語と算数、あるいは中学生になれば国語と数学の成績は、正の相関関係にあります。正の相関関係とは、ふたつの変数の一方が増加すると、他方も増加する関係にあることを指します。
分かりやすく言えば、国語の点数が高い子は、算数や数学の点数が高く、逆に国語が低ければ算数・数学も低いと予測できるのです。この傾向の一致の度合を示す相関係数は、その数値が+1や-1に近ければその傾向が高く、0に近ければ両者間にはあまり関係が無いことを意味します。
ここに、国算社理や音楽や体育などの成績における教科間の関係を調べた研究があります。少し古いデータですが、日本の教育現場は良くも悪くも変化しない傾向にあるので、今日にも同じ傾向が見て取れるはずです。簡単に紹介しておくことにします。
また、この研究が行われた当時はまだ現在のように生活科ではなく、小学校低学年でも理科と社会科に分けて指導されていたことも付け加えておきます。
この研究では、小学2年生の1年間に実施されたテストの個人結果を教科毎に平均して、特定の教科間に相関関係、あるいは無相関を見出しています。
この中で、国語の成績と最も高い相関関係を示しているのは社会科です。これは理解しやすいのではないでしょうか。社会科はある意味、人間の作り出した「読み物」です。国語の能力が高ければ人文科学も理解できるでしょうから、自ずと点数が高くなるのは想像に易いですね。
ちなみに、国語と社会科との相関係数は一学期が0.74、二学期が0.77、三学期が0.74と安定して高い数値を示しています。
国語ができている子は算数もできる
しかし、社会科は頷けるとしても、これに次いで国語との高い関係を示しているのが自然科学の領域にある算数である点は少しひねりが必要です。
「社会科に次いで」と書きましたが、当該の研究では、実は、一学期に0.72、二学期には0.71、そして三学期になると0.85となり、時とともに算数が社会科を抜いて国語との相関関係で1位になるのです。
ではなぜ、国語ができると算数の点数が上がるのでしょうか。あるいは、算数の点数が高い子は国語の点数も高いのでしょうか。
キーワードは「理解力」でしょう。
国語教育には2つの側面があります。文科省は「思考力・判断力・表現力」など、さまざまな指標を掲げていますが、ここでは思い切って2つの項目に単純化します。
ひとつは「語彙の強化」で、もうひとつは「論理性」(文学も文脈という意味でここに含めます)です。
まず、「語彙」の方はその名の通り、漢字を含め世の中のあらゆる概念を覚えることです。語彙が豊かであれば、当然知覚できる概念も増えます。世の中がクッキリと見える。逆に語彙が乏しければ、目の前にあるものも知覚できません。つまり、世の中のことが分からないわけです。
もうひとつの側面は「論理性」です。いくら語彙が豊かでも、それはあくまでも語単位、概念単位の知覚に過ぎません。それらの様々な概念が、複合的に絡み合わさって世の中の事象は成立しています。その関係性を司るのが論理です。この国語の能力における「語彙と論理性」に関しては『パルキッズ通信2021年2月号』をご参照ください。
他方の算数を見てみましょう。教科としての算数にもいくつかの側面がありますが、こちらも独断と偏見でばっさりと、大きく2つに分けます。ひとつは「計算能力」で、もうひとつは「文脈への照応能力」でしょう。(もちろん「数学」となるとそう単純に二分できません。)
「計算能力」とは、単純に四則をはじめとした計算を正しく行うこと、つまり数字と記号が与えられて、それを解く能力、そろばんのことです。極端に言えば電卓を使えばできる作業です。
そして、もうひとつ「文脈への照応」とは、文脈と数式の間を行ったり来たりすることです。ここがキーです。いくら計算が速く正確でも、文脈から正しい数式を導き出せなければ、あるいは計算結果から正しい文脈への還元ができなければ、せっかくの計算にも意味がありません。
この作業のできない子が、いかに多いことか。計算が得意でも算数が苦手な子は少なくありません。そんな彼らは、文脈にある数字をそれらしく組み合わせて公式に当てはめ、そして計算する、という何とも非科学的どころか無謀な行動に出るのです。そんな子、近くに居ませんか?
国語と算数の点数の相関関係は、学年が上がると徐々に強くなります。四則の計算練習は、低・中学年で早々に終わります。そして学年が上がるに連れて、文脈との照応関係がどんどん複雑になっていきます。低学年のうちは、計算問題だけである程度の点数が取れても、高学年になると、文脈・数式間の論理的な照応能力がなければ、点数が取れないわけです。
国語力と計算能力自体は直接関係ありませんが、文脈と照応させる能力には、国語で培われた語彙と論理性が大いに幅をきかせます。国語力が低ければ、仮に算数の計算問題が得意であったとしても、文章題が解けません。そして、その逆もまた真なり。
(ひとつ付け加えておくと、中学以上になると国語と数学の相関関係は希薄になります。そこには、国語科に古文・漢文が含まれること、また高度に抽象化された数学では、文学的な知識を借りずとも数学の能力の範疇で処理できることが影響していると思われます。)
以上が「国語ができると算数ができる」所以です。
算数ができる子が理科ができるようになる
さて、国語ができれば社会科ができる、そして国語で得た語彙と論理性があれば算数の文章題の理解が促されることが分かりました。
では、残った理科との関係はどうなっているのでしょうか。
小2の全学期を通して、国算社理は正の相関関係にあります。その中で理科だけは、国・算・社との相関関係が若干低めです。
ところが、二学期から三学期になると、理科は算数と高い相関関係(+0.77)を示すようになります。前提として、培われてきた国語力による様々な概念や論理の理解力のベースが有り、加えて、目の前の現象という文脈を、数値に置き換えることを許す算数の能力が発揮されれば、理科においてもはっきりと数値化・理解ができることは、理にかなっているでしょう。
つまり、国語ができれば算数ができるようになり、算数ができるようになると理科ができるようになる。そんな因果関係があるのです。そこに、元々国語とは相性の良い社会科も加わると、結果として、国語ができる子は、国算社理のすべての教科ができるという図式が見えてきます。ああ、スッキリ。
「好き」と「できる」は違う
例えば、小学生が「国語ができる」とか「国語が好きだ」といっても、仮にそれが漢字をたくさん覚えているだけであれば、文脈として表れる算数や理科の様々な理解にはあまり役に立ちません。また、中学生が古文や文法が好き・できるといっても、それらは数学やその他の教科の成績とはあまり関係ありません。
つまり、他の教科に好影響を及ぼすという意味で「国語ができる」というとき、それは単に漢字をたくさん覚えているとか、文字がきれいに書けるとか、文学が好きとかいうことだけでは不足で、「論理思考ができる」「理屈を理解できる」能力を持っているか否かが重要になるのです。
同様に、小学生が「算数ができる」とか「算数が得意」というとき、それが単に正確に筆算ができるだけ、スピードが速いだけで、文脈と数式を照応させる能力が欠如しているのであれば、理科の文脈を理解できることとは直接には関係しません。
つまり、理科に好影響を及ぼす算数力には、文脈を理解できる力が担保されている必要があり、文脈の理解力には、そもそも国語力の語彙や論理性が備わっていないといけないのです。
国語力から育つ4教科群と、別に取り組みが必要な教科群
さて、国算社理の基本は国語力にあることはお分かりいただけたと思いますが、それ以外の教科はどうなっているのでしょうか。
つまらない話ですが、高校受験にも「内申点」という日常の授業態度や成績、課外活動が考慮されます。つまり、基本の4教科、中学の場合には英語を加えた5教科をバッチリ整えておけば「もう安心」というわけにはいきません。
上の研究では国算社理の他にも、音楽・図工・体育などと他の教科との相関も調べています。こちらは、前述の国算社理の関係とはずいぶん様相が異なっています。国語との相関も、残りの算社理との相関も、音楽・図工・体育それぞれの間の相関関係も伺えないのです。
つまり、国語の成績が良ければ、その子は算社理の成績も良いと予測できるのですが、音楽・図工・体育の成績が良いという予測はできないのです。また、音楽・図工・体育の間にも相関関係は認められていませんでした。
これらは、国語とは別の能力を使う教科のようです。まぁ、図工や音楽、体育は、言語とは異なる感覚系を使う教科ですので、国語の能力、あるいは算社理ともあまり関係していないのも頷けます。
ということは、とりあえず国語力を伸ばすことで能力の向上が期待できる算社理の3教科とは異なり、音楽・図工・体育の能力は、何か特別な刺激を与えなければ、「自然に伸びる」ものではなさそうです。
このあたり、『パルキッズ通信2021年3月号』で特集した「習い事を科学する」の記事も参考になります。たしかに、小学校の教科を「知性・健康・洗練味」に分類すれば、国算社理は知性、体育は健康、音楽と図工は洗練味に分類されます。そして、知性である国算社理は言語力、つまり国語の能力を磨くことで高めることができますが、健康と洗練味は、知性とは別カテゴリーなので、それぞれの取り組みをしなければならないことになります。
身体及び精神の健康、審美眼などの洗練味を育むという考え方に関しては、上記『パルキッズ通信』をご参照ください。
国語力で英語をカバーできるか?
さて、国語力から育むことができる、つまり国語力(特に論理性)を軸に内側から育てていくことができる教科があること、さらに国語力とは無関係で外側からの別の刺激が必要な教科があることも分かりました。
今月号のタイトルは「英語ができると理系に強くなる」云々ですが、それでは「英語」はどうなのでしょうか。算社理のように国語力と相関関係にあるのでしょうか。あるいは音楽・図工・体育のように国語力とは正の相関がなく、その能力を伸ばすためには何らかの特別な取り組みが必要となるのでしょうか。
この問い、つまり英語力と国語力は相関関係にあるか、に対する答えは「イエス」であり「ノー」でもあります。より正確に言えば、総論で「イエス」、各論で「ノー」となります。
中学生を対象とした調査では、英語ができる子は英語だけが飛び抜けてできるのではなく、総じて他の教科もできる傾向にあります。しかし、より細かく他の教科と比べてみると、英語は、国語よりも数学と相関関係が高い傾向があるようです。
中学生で「数学ができる」ということは、間違いなく小学生の段階の算数はクリアしています。ということは、数式と文脈を照応させる国語力、つまり論理性はすでに小学生の段階でクリアしていることを意味します。
また、国語も古文・漢文など、論理性とは少し距離を置いた文学に足を踏み込みます。つまり、中学生になると、他の教科の学力は国語力からではなく、数学の力から推測できるようになるものと思われます。
論理性と文学を分けた文科省
以下の一節、はっきり言いますが、読まなくても結構です。ただ、腹に据えかねることがあるので少しだけ触れさせていただきます。
大学入試改革と共に実施されている国語教育の改革において、何やら従来の現国・古文・漢文的な考え方から、「論理国語」「文学国語」「古典探求」「国語表現」に選択が分かれているようです。ポイントは、「論理」や「表現」と、「文学」を分けている点でしょう。
日本人の論理性の欠如の遠因を、ややもすると「文学」に求め、それを補うために「論理国語」を設け、「文学国語」と分離する。この考え方は、鼻白むほどに単純化が過ぎます。しかし、文科省を擁護するわけではありませんが、「論理」云々を「文学」云々と分離したくなる気持ちも分からないでもありません。
繰り返しますが、日本人の思考はどこか論理に欠け、情緒に偏る傾向があるように伺えます。また話を聞いていても、ところどころ論理が抜け落ちており、「ん?」となることは日常茶飯です。個人レベルでもそうですが、組織レベルでも同様。論理ではなく、忖度で方針が決まったりもするわけです。
これは、「皆が同じ考え方である」あるいは「同じでないまでも似たり寄ったり」という前提の上でコミュニケーションが図られる「ハイコンテキスト」の日本文化では当然起こりうることです。「沈黙は金」なわけです。
これが進行すると、返事は「りょ」(了解)となり、終いには「りょ」すら消え去って絵文字のみでのコミュニケーションになったりする。それで、気持ちの微妙なニュアンスが伝わるのだから、これはこれで日本人のすごいところです。
しかし、世の中、そんな定形の生活様式や気持ちの持ち主ばかりではないわけですし、少しばかり事情が込み入ってくると、そこには論理性が必要になります。しかし、そんな場においても聞き心地の良い語を並べて「皆さんほらそうでしょう」、「絆」のために「安全安心」を心がけ、「私たちは超えられる」となるわけです。
そこにはもう論理はなく「ほら、みんなで力を合わせて頑張れば何でもできる」という精神論しかありません。それでも納得せずに論理の瑕疵を突っついたりする正義漢が現れれば、「空気の読めないやつ」と仲間はずれにされてしまう…。
これらすべてを「文学」のせいにするわけではありません。もちろん文学が悪いわけではなく、語彙や表現をいたずらに使い回してその場を凌ぐという、「健全な論理性」の欠如が問題です。しかし、論理性を育てるのにどこから手をつけて良いか分からないので、とりあえず「論理国語」と「文学国語」を分けてみた、その点は評価できるの「かも」しれません。
愚痴はここまで。
数学ができると英語ができるワケ
さて、数学ができる子は傾向として英語ができるようですが、なぜでしょう。
理由は簡単です。論理性に優れていて、数学の問題も解けるような頭脳を持っていれば、「勉強としての英語」つまり文法や単語を覚えたり、訳読の仕組みを理解してテストで点数を取れる程度の英語力は身につけられます。
数学ができる子たちは勉強が得意な子ですから、学校英語においては良い点が取れる子です。それゆえに、中学生になると数学と英語の点数には相関関係が見られるのです。
しかし、ここに一人の例外が居ます。単に数学ができるだけでなく、優れた論理性を持って数学や英語はもちろんのこと、母語である国語の文法すら分析できてしまう「超」がつくほど頭の良い天才がわずかながら存在します。どうでしょう。今までの人生経験からの当てずっぽうですが、500人あるいは1000人にひとりくらいでしょうか。
そんな人たちはイマージョン無しで、勉強から見事に実用的なレベルの英語力を身につけることができるのです。
日本語の文法の仕組みも理解できるようになります。
ここで、ひとつ断っておきますが、ここで言うのはあくまでも天才の場合であって、秀才・凡才は、彼らのように外国語を身につけることはできません。これは今の日本の英語教育の現状を見れば明らかでしょう。
我々凡人には、普段使いの日本語の文法を意識の上に載せることなどという高度な抽象化は、精神作業の負担が高すぎてできないのです。
一般に言語学者でもない限り、日本語文法など普段から意識することはできません。しかしながら、そんな私たちも正しい日本語を普段から使うことはできます。この点だけからしても、言語は相当特殊な存在であることが分かります。
言語は一度使えるようになってしまえば、睡眠時の呼吸や心拍のように無意識のレベルで、あるいは歩行をはじめとした身体の振る舞いと同じように、方向性だけ与えれば自動処理されるようになります。
そんな、もはや自分と一体化してしまった国語の文法を分析できるようになるほどの論理性を身につけてしまうと、英文法すらも国語の文法や語彙の知識と照応させつつ、ひとつの分析対象としてサラリと理解できるようになるのです。
繰り返しますが、そんなことをできる人は、ほんの一握りしか居ません。凡人や秀才が言語を身につけるには、天才たちがやるような外からの分析ではなく、イマージョン教育のため、その環境に身を投じる作業が必要となります。
ほら、少しは英語ができる秀才たちは、留学して英語を身につけるでしょう。ちなみに、凡人でも留学すれば英語は身につきますが、秀才の方がより留学のチャンスは多いので、天才でないまでも論理的思考力は身につけておいた方が良さそうですね。
このように、人並み外れた論理性があれば、数学もできるようになり、英語すらもできるようになります。しかし、繰り返しますが凡人の場合には、音楽・図工・体育のように実際の体験を通して英語を学ぶのが現実的なのです。
英語は日本語と同様に「それ自体」を育てる必要がある
英語は、算社理のように国語から伸ばすことができる教科ではないようです。少なくとも秀才・凡人にとっては、論理的思考や記憶力という武器ひとつで戦える相手ではなく、攻略にも限界があります。
ある程度以上に英語を身につけたレベルは、英検準1級に相当します。つまり準1級を持っていれば日本においては十分満足に英語ができる人であると判断されます。この英検準1級取得者と留学生の数がほぼ一致しているという現状があります。大胆に予測すれば、留学でもしない限り、準1級の取得は相当困難であると考えられるのです。(「留学生に起きた魔法を家庭で起こす」『パルキッズ通信2020年1月号』参照)
国算社理のベースとなっているのは国語力ですが、その国語力を伸ばすためには日本語を身につけた後に、家庭内外での相当量の国語的刺激が必要となります。2歳までに自然と身につけてしまう日本語力のまま放っておくと、既述のような「日本人の国語力」の問題が起きてしまいます。この問題を回避するには、小学校に入る前に、もっと積極的な国語教育が施されるべきです。(『パルキッズ通信2021年2月号』参照)
英語力も国語力と同じです。国語力の論理性、個々の頭の良さや記憶力を頼りに英語力を身につけることが困難であることは、日本人全体が晒されてきた “実験” を通して結果が出ています。そしてその結果が不調であることは、現在の日本人の英語力を見れば明らかです。
ということは、英語力も国語力と同様に何らかのインテンシブな刺激が必要となります。それがイマージョン教育であることは、すでに述べたとおりです。
整理すると、言語としての英語は(天才でない限り)どれだけ頑張って「勉強」しても習得は困難であり、教科としての英語は、音楽・図工・体育と同様に、国語力を頼りに成績アップを望むことは期待薄です。
そこで、算社理を伸ばす原動力となる国語と同時に、音楽や体育の能力を伸ばすのと同じよう国語力に頼ることなく、英語力も外から刺激を与えて育てなくてはならないのです。
英語ができると理科ができる2つの理由
さて、いよいよ大詰め、本稿のタイトルに迫ることになります。
「英語ができると理科ができる」という命題の前提としては、理科ができる前提となる国語力が必要です。この前提がないと、 “英語だけ” できる、ちょっと残念な人になってしまいます。ここは大切ですので押さえておいてください。
では、なぜ英語ができると理科ができるのでしょうか。
その理由は2つです。ひとつ目に英語ができると国語力に好影響を与える点、もうひとつは英語ができることで生じる大きな余裕が、学習に時間を要する物理・化学・生物の勉強にかける時間を生むという点です。
ひとつ目は、英語自体が持っている論理性によります。英語は、ひとつずつ論理を積み重ねていく言語なので、論理を少しでも飛ばすと違和感が生じるのです。日本語は、すでに述べたように論理など飛ばしてしまっても、情緒の力でねじ伏せてしまうことができる言語です。
その日本語の思考法や表現法が、英語では通用しないのです。言い換えると、英語を身につけてしまった人は、思考したり表現したりするときに論理の飛躍した文を産み出すことに強い違和感を覚えるのです。結果として、英語を身につける人は高い論理性を持ち得ることになります。
もちろん、「持ち得る」のであって、必ずしも持っているわけではありません。しかし、日本語の世界観のみでなく、英語の世界観も自らのものにできた英語習得者たちは、日本語で語るときには非論理的、情緒的な表現をしつつも、英語で語るときにはある程度以上の論理性を伴った文を産出することを強いられます。
つまり、英語を身につけることで、国語力の中でも他の教科の成績に好影響を与える「論理性」が強化されるわけです。これが、英語ができると国語が伸びる所以です。結果、芋づる式に理科が伸びる余地が生じます。
次のポイントも重要です。英語ができることで、一般に中高生の勉強時間の多くが割かれる「英語の学習」に時間をとられないのです。これは、とても大きなアドバンテージです。
数学ができない多くの学生は、文系へ進みます。その文系学生たちの足を引っ張るのは英語です。英語に時間を割かれるので、古文・漢文、社会科の選択科目などに手が回らないわけです。また、英語力自体も、勉強に時間をかけたわりには向上しないので、希望の進路への道が断たれることが少なくありません。
また、運良く小学生時代に国語の論理的思考力を身につけ、算数から数学へと上手くつきあえた子たち、つまり理系の可能性を持っている子どもたちも、英語に足を引っ張られます。それによって、理系教科の勉強の時間が削減されてしまい、希望の進路をワンランクもツーランクも下げざるを得ない状況へと追い込まれるわけです。
裏を返せば、英語を身につけることで、英語に割かれてしまう大量の時間を節約することができ、その結果、理系の選択科目に時間を割けることになるのです。
さて、長々とお付き合いいただきありがとうございました。英語ができると理科ができる、一見関係のないような教科間にも関係があることがお分かりいただけたと思います。
また、国語と英語、さらに音楽・体育といった教科は、算数や社会、理科とは違い、それぞれに個別の取り組みが必要なことがお分かりいただけたと思います。特に、英語力に関しては、学年が上がるに連れて、理系教科の成績や大学入試準備に大きな影響を与えることも、ご理解いただけたと期待します。
早い段階で英語力を身につけてしまい、同時に国語力を延ばすことも日々心がけていただけるよう切に望みます。
【編集後記】
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【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)
児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。
船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。