10万組の親子が実践した幼児・小学生向け「超効率」英語学習教材のパルキッズです。


カートを見る
ログイン
パルキッズCLUB

パルキッズ通信 特集 | , ,

ヘッダー

2023年3月号特集

Vol.300 | 思考の整理術

親子共に地頭力をアップする方法

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2303/
船津洋『思考の整理術』(株式会社 児童英語研究所、2023年)


思考の整理術 さて、各種受験シーズンもひと段落、春からの新しい環境への準備を進めているご家庭も少なくないことでしょう。特に、本誌をお読みのご家庭では、中学受験あるいは高校受験は当然のことながら、おそらくすべての方がお子様の大学受験を経験することになると思います。
 大学受験で最も重要な教科は、言うまでもなく英語です。英語だけで入れる大学もいくつもあります。とりあえず英検準1級以上の英語力を身につけておくこと、これが希望の大学への進学の最初の条件です。その他にも、大学によってさまざまな条件がありますが、”GPA:Grade Point Average、成績の平均点” で4とか4.3とか、当然英語に関してはそれ以上をとっていれば、基本的に推薦や、総合型選抜(AO入試)の枠で受け付けてくれます。
 ただし、推薦や総合型選抜では、滑り止めに受けることが許されないケースもあります。つまり、もし旧帝大を目指していて、早慶あたりを滑り止めにするのであれば、それらの大学は一般入試で受けることが求められます。
 その際にも、英語力がものを言います。英検準1級以上かつ1級に近い英語力を持っていれば、早慶上智の一般入試の英語で9割は堅いでしょう。一般に、大学入試においては英語の配分が高く、それに続いて、国語と選択科目が同等の配点が与えられています。もちろん、英語と国語を同等の配点にして、選択科目のみが少し配点が低いような大学もあります。
 いずれにしても、英語力がものを言うわけですが、それらの超難関大学の一般入試では、英語力だけでは到底合格できません。英語で9割取って、さらに国語で6割程度取っておけば、選択科目で5割ほどでも十分合格できるでしょうが、国語で5割を切るようだと、合格は現実的ではなくなってきます。

 つまり、英語はできて当たり前。その上で、英語よりも何よりも重要な、日本人の思考の原動力となる国語力が、難関大学以上の大学では求められることになるのです。


「生きる力」と「思考力・判断力・表現力」と「主体性」と…あれやこれや

「生きる力」と「思考力・判断力・表現力」と「主体性」と…あれやこれや 日本人の英語力に関しては、その惨状を繰り返し述べているところですが、国語力に関しても、決して誉められたものではありません。これには、文科省も頭を悩ませているようです。なぜかそこから話は広がって「生きる力」を身につけさせようとすることになります。そして、その生きる力の根源になる国語力に関しては、特に「思考力・判断力・表現力」それと、これが国語と関係あるのか知りませんが「主体性」をも育むことを目指しているようです。(*1)
 事実、日本人の国語力は記述式の問題に関してずいぶん課題があるようで、必要な情報の取捨選択や、論理立てた思考、そして相手にわかるように表現する能力などの思考力・判断力・表現力に課題が見られるそうです。
パルキッズ通信2022年9月号』で触れているので詳細は避けますが、例えば「エベレストは世界一高い山だが、富士山よりエベレストは高いか?」などの質問があったとすると、それに対して一般化ができず「富士山と比べて見なければわからない」と答えるような子どもたちが実際にいるのです。
 こうなってくると、「思考力・判断力・表現力」以前に、「理解力」などの基本的な言語能力が欠如しているわけです。このような子たちに「生きる力」そして「思考力・判断力・表現力」や「主体性」を高める教育をしてみたところで、その試みは「虚しく」終わることでしょうし、既にそうなっているのではないでしょうか。

 さて、それでは、どのようにすると「思考力・判断力・表現力」に優れた、あるいは「主体性」をも備えた国語力の高い頭の良い子、ひいては「生きる力」を身につけた子を育てることができるのでしょう。今回は、文科省の掲げる教育理念と我々の提唱する「地頭力」の考え方を引き合いに、「増やす型思考」と「減らす型思考」という視点から話を進めていくことにしましょう。


「増やす型思考」と「減らす型思考」

「増やす型思考」と「減らす型思考」 本題に入る前に、今回のふたつの視点、「増やす型思考」と「減らす型思考」に関して簡単に説明しておくことにしましょう。

 まず、大前提として人間は面倒くさがり屋です。
 ひとつひとつ丁寧にすることが「めんどうくさい(/..doukusai/)」ので「めんどくせー(/..dokusee/)」と発音することになります。日々我々が使用している言語でいえば、音便を含めた子音弱化や米語の母音間フラップなども面倒くさいの賜物です。
 言語で面倒くさがっている分には「面倒なお方だ」と面倒がられる程度ですが、命懸けで面倒くさがって、信号のない幹線道路を jaywalk して(危険な横断をして)事故に遭う人までいるほどの面倒くさがり屋です。
 もっとも、その面倒くさがりが、車輪を発明し、蒸気機関や電気などのエネルギーを私たちの世界に持ち込んだわけです。面倒くさがりのお陰で、新幹線や携帯電話、スーパーマッケットなど、物流やパソコンをはじめとした計算機やインターネットを生み出しているのですから、「見上げた面倒くさがり度だ」と、感心せずにはいられません。
 
 さて、面倒くさがりは人間の性ですが、人の生活の中で最も面倒くさいものといえば「思考」でしょう。人間は、その生まれ性として言語を持っています。世の中には「言語はコミュニケーションの道具で、そのために発達した」などと面倒くさがって思考を端折ったことをおっしゃる方もいらっしゃるようですが、言語の本質はそんなところにはありません。言語とは我々の共通の祖先の「とある一人」に起こった突然変異の賜物である、というのが定説となっています。そして、この言語が実に厄介な存在なのです。
 言語を使って「お話し」している分には楽しいのですが、人間は他人と話すときにだけ言語を使用しているのではありません。我々は「思考」に言語を使用しています。しかし、ですよ、その「思考」こそが人類を苦しめる、まことに面倒な作業なのです。
 ある人は「思考」と向き合い哲学や文学を生み出し、あるいはさまざまな発見に到達します。しかし、凡人にとってひとり沈思黙考することは並大抵の作業ではありません。しかし、言語はそんな凡人の脳内でも常に蠢いているのです。そして、考えるのが嫌になると酒を飲んでオーバーヒートした頭を冷やしたりします。最近では、テレビやインターネットにより、人類を「思考」から遠ざける「エンターテインメント(entertainment: 内に留まらせるもの、つまり楽しませて外に逃さないもの)」に手軽にアクセスできるので、我々はどんどん考えなくなっているのです。しかも、幼児期からテレビ漬け、Youtube漬けなら、「思考」の暇などあろうはずもなく、当然の帰結として教科書が読めない子が育ってしまうのでしょう。


思考の整理をせずに、記憶する項目を増やす現代のあらゆる教育

思考の整理をせずに、記憶する項目を増やす現代のあらゆる教育 さて、人はその性として「思考」してしまう。しかし、「思考」特に「(論理)思考」は面倒くさい。知識が少なければ「思考」の奥行きも浅く幅も狭いので、ひとつの概念を理解するのにも苦労します。もう拷問です。そして、人は「思考」を諦めて、次善の策である、経済性の悪い「記憶」に頼るようになります。「答えを教えてちょうだい」そうしたら「覚えるから」となるわけです。まさしく今日の日本の教育現場で起きていることそのものです。

 物理現象などは、極めて単純な「ちょっとした原理」に支配されています。世の中に7,000もあると言われる言語も、すべてが極めて単純な原理に乗っかっていると想定されています。自然科学とは、複雑に見えるさまざまな現象や概念を、最小限のところまで単純化することを目標にしています。
 つまり、一見複雑な定理や理論も突き詰めれば単純な原理に行き着くのです。しかし、それを理解するには大変な知性が必要となります。そして、その知性、つまり自分の知識をもとに考えること、さらに分からない部分を補う知識を増大させることは、「思考」の習慣のない者にとっては苦行でしかないのです。そして、「思考」からの「理解」ではなく、既述の「覚えるから教えて」、つまり単なる「記憶」に頼るようになるわけです。

 「増やす型思考」とは、「思考」という究極の負担を避けるために「記憶」という負荷を脳にかけるやり方です。いわゆる「頭の良い」人たちは、この思考法が大の得意です。他方の「減らす型思考」とは原理の理解に至るまで「思考」して「記憶」の負荷を軽減するやり方です。後者では一度理解してしまえば記憶に頼る必要がないので、極めて経済的です。
 問題を究極まで突き詰めることをせずに、手近にある頭の良さを活用する「増やす型思考」は、記憶すべき概念や知識がやたらと増えていく傾向にあります。そして、その「増やす型思考」で、「改善」の名の下に微に入り細に入り、どうでも良いような些事までがどんどん増加して、現場を圧迫しているのが今の日本の教育現場を含めた社会のあり方とも思えて仕方がないのです。
 まずは、「増やす型思考」の一例としての文科省の理念を検証して、その後に「減らす型思考」、僕が考えるところの「地頭力」のある人の思考へと話を進めていくことにします。


国語がすべての基本

国語がすべての基本 さて、『パルキッズ通信2023年2月号』では、文科省の英語教育に関しての指針について批評を加えましたが、今回は、日本人の頭の良さに直結する「国語力」について見ていくことにします。詳細に関しては学習指導要領「生きる力」(小学校版)のページを参照してください。(*1)

 まず、ざっとサマライズすると以下のようになります。曰く…  進むグローバル化の中、「確かな学力」「豊かな人間性」「健康・体力」を満足した「生きる力」が必要となる。そして、その「確かな学力」を担保するためには高い言語力が必要で、「すべての教科」の基本となる「国語力」を高める必要がある。国語力に関しては「基本的な知識・技能」を身につけるとともに、特に今の子どもたちに課題の残る「思考力・判断力・表現力」と「主体的に学習に取り組む姿勢」の涵養が必要である。言語は知的活動(論理思考)の基礎でありコミュニケーションや感性・情緒の基盤でもある。そこで、国語科はもとより今後は各教科などにおいても言語活動を充実することが求められる。国語科においては言語理解・論理思考・表現力・コミュニケーション力を高め、言葉の美しさやリズムを体感させ、発達に応じて広く、要約、説明、論述などの能力を養う。各教科においては国語科で培った能力をもとに、知的活動、コミュニケーション、感性・情緒の基盤など言語の役割を踏まえて、言語活動を充実させる必要がある。また、従前の言語活動を通じた指導を把握・検証した上で言語発達や能力を踏まえ、適宜言語活動を計画的に位置づけ授業構成のあり方などを工夫・改善する必要がある。そのためには、自校や他校の優れた活動事例を参照したり、適切な教材を取り上げること、また読書活動を推進することが推奨される。

 …だそうです。

 極めて当然のことばかりですが、国語教育がすべての教科の基本となるということには大賛成です。それこそ「言語能力の高さ」がそのまま「生きる力」につながることにも、まったく異論はありません。また、「基本的知識・技能」が三大要素に挙げられていることにも首肯です。ただ後半になって、国語科における「言葉の美しさ」とか、国語科以外にも「言語活動」が組み込まれることは、現場の負担を増やすのでは?と危惧するところです。そして、この後に「具体例」として教師が取り組むべきタスクのサンプルが羅列されることになります。

 ひとつ、わからないことがあります。今、教育現場では教師が不足しているそうです。そして、文科省は先生を増やすことに躍起になっているようです。しかし、ですよ。50年前に比べて現在生徒数は半減、学校数や事務員数も減少しています。他方、教師の数だけは据え置き、あるいは微増しているのです。それでも人手不足になっている。これはどういうことなのでしょうか。
 民間の感覚でいえば、マーケットは半分のサイズになり、サービスを受ける対象者は半減したが、サービスを提供する者を増員している。しかし「人手が足りない」ことになります。
 そんな会社は倒産です。一般的には、お客が半分になれば従業員も半分(とまではいかないが激減)で良いでしょう。しかも、文科省が言うように今はグローバル化やITの時代です。サービスの質を下げずに効率を上げて、人員を削減することなど簡単でしょう。いや、それどころか、人員を減らしつつサービスの質も効率も上げることができるはずです。
 一人の教師が教える生徒数が半減することで、教育の質が充実し、日本国民全体の学力の底上げになった、というのであれば大歓迎です。しかし、そんなことは実際には起きていないようです。逆に問題ばかりが増えている印象すら受けてしまいます。

 一体全体、どうなっているのでしょうか。おそらく、これは「増やす型思考」に原因があるとみています。それでは以下、「増やす型思考」からみていくことにしましょう。


「基礎的・基本的知識と技術」「思考力・判断力・表現力」「主体性」について

「基礎的・基本的知識と技術」「思考力・判断力・表現力」「主体性」について 「基礎的・基本的知識と技術」に関しては、こればかりは習得しないことには教科の学習も始まりません。それではどうするか?「減らす型思考」であれば、知識や技術の習得には、「思考」を通した原理などの「理解」を目指します。しかし、すべての子どもたちが理解に至ることができるかといえば、そんなことはないでしょう。そこで、「記憶」や反復訓練が行われるようになります。頭や体で記憶させるわけです。
 本来であれば、原理を理解させるべきところ、時間不足、あるいは学習者や指導者の能力不足から「記憶」に頼る学習となります。これでは、必要な時にその記憶を引き出せるかどうかも定かではなく、さらにその知識を現実の問題に応用できるかどうかも心許ないところです。
 小学校で習うような、さまざまな現象やそれに伴う公式は極めてシンプルなものです。「メノン」にあるように、ソクラテスが奴隷の子から幾何学の問題の正答を引き出すようにな指導ができれば、「記憶」せずとも「思考」から「理解」に導くことができると思います。ましてや生徒数が半減しているわけですし、またそろそろそれら原理の指導法が「確立」しても良い頃ではないでしょうか。

 続いて「思考力」を見てみましょう。思考力を育てると文科省は息まきますが、そもそも「思考」とは思いを巡らすことで、人間は放っておいても「思考」してしまう生き物です。試みるべきは「思考力」そのものを育むことではなく、「思考」の正しい方向づけの改善でしょう。
 思考には二種類あると言われており、ひとつは合理的思考で、垂直思考とも呼ばれます。もうひとつは閉鎖的思考で、こちらは水平思考とも呼ばれます。閉鎖的思考とは夢想的な思考のことで、例えば寝ている時に見る夢のように、論理も前後関係もなく、あらゆる方向に思考が拡散していることです。これは、放っておいてもできます。子どもたちに課題が残るのは、合理的思考の方でしょう。
 つまり「思考力」を高めるために必要なのは「論理」であり、物事の道理やあり方に沿って「思考」を進めていくやり方を研ぎ澄ます必要があるわけです。しかし、論理だけでは健全な思考にはなりません。大切なのは「知識」で、「知識」がないところの「論理」は「屁理屈」に過ぎません。
 また、思考の対象を正しく理解しているかどうかという点も重要です。現状や問題の認識が正しくないと、間違えた土台の上に「論理的」「思考」を積み上げることになります。結果、正しい結論に到達できないわけです。つまり、「思考」を開始する前に、対象を正しく「理解」する必要があるのです。

 このように考えると「思考力」を育てるためには、まず問題の「理解」と「知識」があり、さらに「論理性」が必要であることがわかります。先取りになりますが、「地頭力」の考え方では「理解力」と「知識」を合わせて「言語力」と呼んでいるので、そのようにします。そして、繰り返しますが「思考」自体は自動処理なので、「思考力」の涵養には「思考力」自体を伸ばそうとするのではなく、「言語力」と「論理性」があれば良いことがわかります。つまり「思考力」の訓練は不要。

 それでは「判断力」はどうでしょうか。判断とは「とあるものが、とあるものである」と断定する作業です。「Bを殴ったのはAである」と判断を下すのに、まず必要なのは「AがBを殴った」という「知識」です。その上で、例えば「Aは有罪である」と断定するのに必要なのは「論理的」思考です。
 「判断力」というと、なにやらリーダーシップの一部のような印象を受けますが、実は私たちは口に出さないまでも、問題の「理解」と「知識」や「論理的」思考によって「悪いのはBである」などと、日常的に「判断」しているのです。
 しかし、「言語力」や「論理的」思考だけで、常に正しい判断ができるとは限りません。そもそも「正義」とは立場によって変わるものです。そこで、重要なのが「倫理観」となります。人のあるべき姿という中立な視点で、それぞれの立場を超えて「判断」を下す能力があれば、信頼に足る判断力と呼べるでしょう。
 つまり、判断力自体をどのように育てるのか、という議論ではなく、「言語力」や「論理的」思考に加えて「倫理観」を育てていくことが、「判断力」の向上につながるのです。

 そして、三つ目の「表現力」ですが、表現力の涵養には何が必要なのでしょう。
 「表現」とはその字の通り、外に表すことで、人は表現することで自分以外にメッセージを送ることになります。例えば、伝えたいメッセージがあれば、伝えようとしている対象にそれが正しく伝われば良いわけです。
 そのためには、伝えたい内容を相手が理解できるような形で表現することが不可欠です。もちろん、美術や芸術には、そうでないものもありますが、一般に文科省のいう表現力とは、おそらく相手に伝わるような言語力をいうのでしょう。
 そうであれば、「表現力」を伸ばすのに必要なのは、豊かな「語彙」と相手を慮る「倫理観」です。豊かな語彙とは知識のことなので、これは「言語力」となり、相手を慮る力とは、例えば幼児には幼児にわかるような話し方をする能力で、これは相手のことを考え共感する力、「倫理観」と言えます。


増やすとどうなるか?

増やすとどうなるか? さて、文科省のいうところの「思考力・判断力・表現」を文科省のやり方で伸ばしていこうとすると、どうなるのでしょうか。以下、文科省の言です。
 曰く、体験から感じ取ったことを、言語、楽曲、絵画、身体などで表現したり、自国や他国の文化・歴史などについて調べ論述したり、理科の実験でも仮説を立て結果を考察したり、社会問題に関してディベートしたり、となります。
 つまり、国語科以外でも、記録、要約、説明、論述を発達段階に応じてできるように指導しなくてはならないようです。
 また、それだけでは満足できません。
 曰く、日本人には課題発見・解決能力、論理的思考力、コミュニケーション能力やクリティカルシンキングが足りないので、それを伸ばさなくてはならない。その前提として「基本的・基礎的知識と技能」を身につけていることが求められ、さらに「積極的に学ぶ主体性」まで育む、となるわけです。
 それぞれ必要なことだとは思いますが、なんだか次々と付け足されていきます。これでは、現場の先生方がどんどん忙しくなるのも頷けます。やることが増えるのですから、生徒数が半減しても、IT技術が進んでも、仕事は楽にならないでしょうね。
 問題が起きたら、その問題を解決するように手を打ちます。そのためには、何が問題の原因であるのかをまず突き止めなくてはいけません。例えば、「思考力・判断力・表現力」や「コミュニケーション力」や「クリティカル思考力」が不足しているという問題が起きた時に、それを解決するためには、まず「なぜ」それらの能力が不足しているのかを考えるのが「科学的」思考です。
 しかし、どうも、問題の根底にある原因を探ることをせずに、「思考力・判断力・表現力」や「コミュニケーション力」や「クリティカル思考力」などを技術の一端と見做して、それらの能力を高めるようなトレーニング方法を専門家に聞いて回っているような印象が拭えないのです。

 しかし、これは、学校の教育現場だけで起きていることではありません。
 増やしていくとキリがないのですが、ご家庭やご自身でも起きていませんか?例えばプリントが苦手な子に「どうやってプリントをさせるのか」ばかり考えて、「なぜ、この人はプリントが苦手なのか」を考えたことがあるでしょうか?ふざけてばかりいる男子に「ふざけるのをやめる」ように促すことばかり考えて、「なぜ、この子はふざけるのか」を考えてみたことはありますか?
 例えば、スキーなどひとつの技術を手に入れようとした時に、いろいろな先生がいろいろなことを言います。それらを覚えて練習しても、大抵はうまくいきません。覚えることや、やることが多すぎるのです。
 優秀な先生ほど、何も言わずにやらせます。そして、「間違えているところだけ」を指摘します。つまり、「間違えていなければ、どのような取り組みでもいいよ」という姿勢です。谷足に力を入れろ、力を入れる方の手を下げろ、膝がどうだ、お尻がこうだ、背中がああだ、姿勢がこうだ、などの指摘ばかりする指導者もいますが、優秀な指導者は「間違えているところだけ」指摘して、あとは本人の本能がその子にあったフォームを獲得するまで繰り返し滑らせます。

 技術の習得の過程は、人それぞれです。足は揃うが、上半身がふらふらしている子、逆に上半身はしっかりしているが、足が揃わない子などなど、スタート位置も違えば成長の過程も異なるのです。思いつくままの技術のカケラを、仮に想定された一本の成長直線に無理やり嵌め込んで、その順番通りに指導しようとしても、うまくいきません。
 重要なのは、「間違えていない限り好きにさせる」そして、ひたすら「インプット」し続けることです。スキーで言えば「滑らせる」ことに尽きるでしょう。そうすると、子どもたちはスキーの「原理」に自ら到達するのです。増やすのではなく、減らすことがいかに重要かお分かりいただけるでしょう。


片々たる技術の積み重ねではなく、「原理」を習得させる「地頭力講座」

片々たる技術の積み重ねではなく、「原理」を習得させる「地頭力講座」 弊社では「地頭力講座」という、我が子を地頭力の良い子に育てる「親のための」講座を実施しています。そこでは、子どもの「言語・論理・倫理」という3つの能力を育むことを目的としています。特別にすごいことをやりましょう、というわけではなく、日常の子どもへの接し方をわずかに変化させることで、日常生活を「言語・論理・倫理」を伸ばす教育の場にしてしまおうという講座です。

 つまり、増やす型ではなく、減らす型。情報過多のこの時代、情報の波に飲まれて、「3つの法則」「5つのルール」「7つの共通点」などなど、やるべきことがどんどん増えていってしまうものです。そして、お金や時間といった、限られた資源を分散してしまう。これは戦略としては最も忌避すべきことです。
 そこで、提示された情報を整理整頓・取捨選択して、その本質を抉り出し、必要なことのみに資源を集中投下する。これがあるべき姿でしょう。先の文科省の「課題発見・解決能力、論理的思考力、コミュニケーション能力やクリティカルシンキング」に関しても、「基本的な知識・技能」や「思考力・判断力・表現力」さらには「主体性」すらも、「地頭力」のいうところの「言語(理解力と知識)・論理・倫理」を伸ばせば解決できるのです。

 しかし、思考を整理せずに「とにかく与えられたものをやっつける」「人より早く取り組ませる」しかも「大量に処理させる」ことになれば、それらは、子どもたちの自由な思考時間を奪うばかりでなく、原理を「理解」するための「思考」させるチャンスすら奪ってしまうことに気付かなくてはいけません。


減らすとどうなるか?

減らすとどうなるか? 「地頭力講座」では、これまであった子育ての「やるべきこと」「やったら良いこと」などなどの知見を最小限までスリムにして本質に迫っています。地頭力が育ては、「知識の習得」はいうまでもなく「思考力・判断力・表現力」や「コミュニケーション能力・クリティカルシンキング」また「主体性」まで身につけることができるのです。それぞれの能力をトレーニングするといった手法でなく、それぞれの能力が欠損する理由を補うやり方なのです。
 つまり、良い地頭の原動力となる「言語力」「論理性」「倫理観」を小学生のうちまでに育ててしまうこと、あるいは我が子が地頭の良い子に勝手に育ってしまうような親になることを目標とした講座です。
 そこでまず行われるのは「言語力」を育てることですが、この項目だけは「理解力」と「知識(語彙)」の両輪で回りながら「言語力」を高めるようになっています。なぜなら「語彙」は子どもたちの次の段階の「理解力」を育てると同時に、とある段階の「理解力」は次の段階の「語彙」と正のスパイラル状になっているからです。
 語彙は、絵本をはじめとした日常・非日常の親子の会話の中から伸ばします。しかし、このことを重要視しているご家庭は少なく、「年間に50冊の絵本を購入しなさい」と言われることでようやく気づく親御さんも少なくありません。また、親子の日常会話が、いかに定型的で語彙も貧弱であるのかにも、セミナーを受けて気付かれる方が多いのです。
 また、理解力に関しては「説明」ではなく「読み聞かせ」が良いのですが、この点に関しても「説明」に終始してしまう親御さんが少なくありません。
 日常の子どもへの接し方や、絵本の使用法・リスト、あるいはさまざまなイベントを起こすことで、子どもの「理解力」と「知識(語彙)」を豊かにして、ゴールである高い「言語力」を育むことができるのです。

 高い言語力を身につけるのと同時に必要なのが「論理性」です。論理性を育てる一番の方法は「ままごと」です。子どもたちは遊びの中で、実際の経験を再現します。そして、再現するからには、「こうすれば、次はこうなる」という「論理」がなくてはいけない。積み木やブロックで頭の中のイメージや実際の構造物を再現する「ごっこ遊び」も論理性を育みます。

 さらに「倫理観」ですが、これは共感力と言っても良いでしょう。もしくは正邪の区別を導く「徳」と呼んでも良いかもしれません。この「倫理観」はその重要性が見落とされています。例えば、コミュニケーション能力を高めるには共感力、つまり倫理観がなければいけません。
 また、倫理観は「主体性」の原動力でもあります。相手の立場に立ってものを考えれば、自ずと自らやるべきことも見えてくるのです。

 これら「言語力」「論理性」「倫理観」が相まって、日常的にさまざまな思考が行われることになります。するとそれは「問題発見・解決能力」「クリティカルシンキング」「判断力」「コミュニケーション能力」「主体性」など、文科省が求めるところの我が国民のあるべき姿となるのです。

 このように「減らす型思考」で作り込まれたのが「地頭力講座」です。「増やす型思考」ではないので、学校の先生のように忙しくなることもなく、日常の行動、言動、思考法を見直すだけで、我が子を地頭の良い子に育て、さらに親御さんも育児が楽しくラクになるやり方なのです。

 とにかく、思考させる材料と時間をたっぷり与える。材料に関しては、何でも構いません。世界のこと、地理、食材、動物、植物、俳句、和歌、落語、イベント、特産物、国旗…、何でも良いから与える。そして、時間に関しては子どもが思考する時間を持てるように、エンターテインメントをやめる(減らす)ところから始める。ちょっとしたことが、地頭力が育つか否かを決めるのです。


さらにイノベーション教育、プログラム教育にも効く

さらにイノベーション教育、プログラム教育にも効く ところで、「地頭」の良い子に育てたくない親御さんはいらっしゃらないでしょうが、イノベーションとかプログラムとかの言葉を聞くと、心が揺れる方もいらっしゃるでしょう。現に文科省も人語に落ちないようです。

 曰く、「特に高等教育における教育機能を充実し、先見性・創造性・独創性に富み卓越した指導的人材を幅広い様々な分野で養成・確保することが重要」であり「専攻分野についての専門性を有するだけでなく、幅広い教養を身に付け、高い公共性・倫理性を保持しつつ、時代の変化に合わせて積極的に社会を支え、あるいは社会を改善していく資質を有する人材」を育てたいようです。(*2)

 個人的には、大学は研究機関であると思っていますが、最近では教育機関の比重が増してきているようです。それでも、大学の4年間くらいは好きなことを思いっきりやれば良いじゃないかと思いますが、そうではなく、実学を求める方向にシフトしてきているようです。なんだか、殺伐としています。

 日本にはイノベーターが少ないのですが、その理由は簡単です。学校教育で垂直思考ばかりやらされており、水平思考の余裕がないのです。垂直思考(論理的思考)はもちろん大切です。しかし、論理からは新しい発想は生まれません。
 「枯れた技術の水平思考」とは、任天堂の横田氏が言った言葉だとか。確かに、イノベーションはまったく新しい技術ではなく、ありふれた概念や技術を組み合わせた形で生まれます。スティーブ・ジョブズもそうですし、Kindleの電子インクもそうです。ちなみに、「パルキッズ」のオンラインレッスンも、汎用性の高いありふれた技術と我々の培ってきたノウハウを組み合わせただけのものです。だから、専用器も必要なく、低価格でサービスを提供できるのです。

 話がそれましたが、その水平思考、どうやってその能力を高めるのでしょうか。

 簡単なことです。原理の(記憶でなく理解された)知識を増やすことと、頭を空っぽにすること、この2点です。
 これに関しては長くなるので、また別の機会に詳細を述べることにいたしましょう。


*参考文献
(*1)『学習指導要領「生きる力」』(文部科学省ホームページ)
(*2)『第1章 新時代の高等教育と社会』(文部科学省ホームページ)

【編集後記】

今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
地頭の良い子の育て方
がんばればできる!はもう通用しない
幼児・小学生の英検受験に向けて
言語力の差を決定づける幼児期の絵本の与え方
「できない子」を「できる子」に変える方法
英語習得に有益か無益か?一刀両断します
英語教育 すすむ2つの二極化

【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)

特集イメージ9 児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。


アマゾンで本を購入する


次の記事「幼児の英語バイリンガル教育3つのルール」


まずは資料請求
今なら3つの特典つき

プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

この記事をシェアする

関連記事