パルキッズ通信 特集 | バイリンガル教育, 英語学習方法, 言語学
2024年7月号特集
Vol.316 | バイリンガル育児3.0
偏差値と知能指数とCEFRの関係から
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2407/
船津洋『バイリンガル育児3.0』(株式会社 児童英語研究所、2024年)
イケてるバイリンガル、イケてないバイリンガル
「バイリンガル」という言葉、世間は結構気ままに使っているようですが、定義は一体どうなっているのしょう。辞書定義は各々に任せるとして、帰国子女や留学生たちに、試しに聞いてみました。すると…「日本語と英語が両方とも問題なく使いこなせる人」「(日本語は当然のこと)英語でも大学の授業を受けられる人」などという答えが返ってきました。
これらを詳しく見てみましょう。「日英両方とも問題なく使いこなせる」といっても、これは定義が曖昧ですね。「言葉を使いこなせる」というのが、仮に買い物ができるとか、レストランで食事ができる、旅行して現地の人と会話を楽しめる程度であれば、大した日本語力や英語力は必要ありません。ちなみに、海外旅行などで見ず知らずの外国人と英語を話したいという欲求のある人がいるようですが、見ず知らずの人と話したいなら国内でもできますよね。日本語で見ず知らずの人と話し合える “社会性” を身につけたいのでしょうか?それとも “英語” の腕試しをしたいのでしょうか?ちなみに、僕が見ず知らずの外国人に日本語で話しかけられて、日本語の練習相手にさせられたら辟易します。
まぁ、「英語で話をしたい」のは別として、例えば日常的な行政手続きがこなせる、あるいは会社の設立手続きができる、あるいは保険に関して理解できたり、さまざまな補助金申請の手続きができるとなると、ある程度以上の言語力が必要となります。この段階では、会話というよりは、理解の方に重きが置かれるようになります。これら、日常会話より高いレベルの言語処理を、日本語と英語の両方でできれば、それは結構なことですね。
会話より理解というレベルの言語力、という点では、「大学の授業を受けられる」というのはひとつの目安となるでしょう。つまり、日本語で大学の授業を受けるにおいて問題ない程度の十分な知性がある。あるいは、それを英語でもこなせる程度の英語力があるとなれば、これは、帰国子女たちに聞いたところのバイリンガルに十分な言語の運用力を有すると判断できることになります。
『パルキッズ通信2022年5月号』で特集しましたが、「生活言語(Basic Interpersonal Communication Skills: BICS)」や「学習言語(Cognitive Academic Language Proficiency: CALP)」などという概念を用いれば、ここで述べている日英両方において大学などの授業に耐えうるCALPレベルの言語力を有している人を「バイリンガル」というのが、妥当なようです。
しかし、他方で “一応” 日本語も英語も “バレない” 程度に使いこなせるものの、両方とも大学などの高度な教育には耐えられない、いわゆる「ダブル・リミテッド」と呼ばれる言語能力の持ち主もいます。これらの人たちは日英において両方ともBICSレベルということになります。帰国子女などは、母語(L1)の日本語においてはBICS(もちろん、海外でも日本語教育を重視するご家庭ではCALPとなります)であり、L2(第二言語)の英語においても、発展途上となり両方の言語においてBICSです。彼らも、運良く高校程度までを英語の環境で育つことができれば、L2の英語においてはCALPを有するようになります。その点、留学生なども帰国子女と同様で、訓練次第ではCALPまで英語力を高めることも可能です。
さらに、付け加えると、バイリンガルでもなく、日本語しか使えないのに、その日本語ですらBICSレベルの人たちもいます。小泉改革この方乱立した大学によって供給過多となり、本来CALPレベルの日本語力すら持ち合わせない学生までが大学へ進学するようになったようです。その現実に関しては、様々なところで話題となっていますし、後々少し触れることにします。
つまり、日本人における日本語力はスペクトルを成しており、極めて優れた日本語使用者もいれば、そうでない日本語母語話者もいます。そこに、英語力という、これまたスペクトルを成すL2が加わると「バイリンガル」と一口に言っても、様々なケースが有ることがわかります。今回は、日本語力と英語力という両方に焦点を当てつつ、それらをCEFR、あるいは偏差値や知能指数、あるいは語彙レベルという指標に照らし合わせて、日本人における様々なバイリンガルの有り方と、「パルキッズ」の目指すバイリンガルについて考えていきたいと思います。
バイリンガルとL2学習者
その前にまずひとつ、少しややこしいのですが、バイリンガルと様々な英語学習者に関して、クリアにしておくことにします。本誌でも過去に紹介してきましたが、英語の学習に関しては「バイリンガル」と「L2学習者」があります。前者のバイリンガルの方は ‘Simultaneous Bilingual’ と呼ばれる、生まれたときから2か国語の環境で育つバイリンガルと、3歳までに母語に加えて第二言語の環境が与えられる ‘Sequential Bilingual’ の2つの集団に分けられています。また、L2学習者の方も、‘Early L2 leaner’ と呼ばれる、おおよそ思春期までにL2学習を開始するものと、アメリカ移民に代表される思春期を過ぎてからL2学習を本格的に、つまり英語圏において学習開始するものの2つの集団に分けられています。
外国語習得に関しては教育学、その枠内でのバイリンガリズムの研究、あるいは言語心理学、さらには言語学の中でも音韻論や音声学の分野など、様々な分野において研究が行われております。その分野分野において、同じ「バイリンガル」でも定義が異なるのです。
例えば、カミンズ(Jim Cummins, カナダの言語学者)のように、教育学においては第二言語として外国語を学ぶ者たちのL2の発達過程を研究する人たちがいます。この人たちは、移民たちの英語レベルを直感的に区別できるように、言語をBICSとかCALPに分けたりします。また、言語心理学の分野ではより科学的にバイリンガルとL2学習者の刺激に対する反応の違い、脳内での言語処理の仕方の違いなどを研究します。応用言語学の分野では ‘Simultaneous Bilingual’ と ‘Sequential Bilingual’ 間での音声知覚や音声実現の差を観察するような研究も行われています。さらに音声学や音韻論の分野でも、バイリンガルとモノリンガル、あるいはL2学習者間のL2レベルの違いによる知覚と産出の差の、共時的(言語比較)・経時的(歴史的変化)観察を行ったりもします。
皆さん、似たようなことを研究しているのですが、共通の語彙がなく、ジャンルによって語の使い方がそれぞれ異なります。それに拠って、様々な混乱が起きていますし、加えて非専門家たちの恣意的な語の使用が横行するので、定義が曖昧となるわけです。応用言語ではL2のことを「中間言語」というスペクトルで表したりする一方、音韻論では言語間の音素の違いを Perceptual Assimilation Model (Best) あるいは Speech Learning Model (Flege) などとモデル化したりします。特に、興味深い点、というか特徴的なのは、後者ではすべてのL2学習者を、その習得のレベルに関わらず「バイリンガル」と呼んだりもします。つまり、今日の日本においては小学生以上はすべて日英のバイリンガルということになります。
はてさて、皆さんの心の中の「バイリンガル」とはどんな存在でしょうか。それはさておき、話を進めましょう。
90年代に言語のるつぼのヨーロッパで、”CEFR : Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment、外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠、セファール” という指標が作られました。それによって、L2の習得レベルを計測(少なくとも計測しようと)できるようになったわけです。‘Simultaneous Bilingual’ と ‘Sequential Bilingual’ 間や、Bilingual とL2学習者間のL2知覚や産出などにおける「母語話者らしさ」の測定はできませんが、ある集団は「中間言語」と呼ぶ、スペクトルを成している個々人のL2の運用力、あるいは教育のジャンルの中におけるバイリンガルの研究における BICS や CALP といった概念を排除して推測することができるようになります。
もちろん、CEFRにも不備な点があります。すでに述べたように、あくまでも学習して身につけた外国語の運用力、という視点からの指標なので、純粋な知覚力や産出における “ネイティブらしさ” などは含まれません。例えば、英検準2級を持っている小学4年生が二人いたとします。一人は文法訳読中心に学習してきたもの、もう一人は「パルキッズ」で学習を進めてきたものとします。この両者には、埋めがたいレベルの知覚力や産出におけるintelligibility(明瞭さ)の差があります。しかし、このあたりはCEFRでは測れません。
ただ、とはいえ、CEFRは便利な指標なので、今回はL2ばかりでなく、思い切って拡張して、L1の運用力に関しても、CEFRの基準を使って、理解を深めていこくことにします。
日英それぞれをCEFRに照らし合わせてみると…
さて、まずはCEFRにL1とL2のスペクトルを当てはめて、日本人の母語と外国語の運用能力をまとめてみることにしましょう。CEFRの改訂版では更に細分化されていますが、煩雑になるので、ざっとまとめてみます。また、日本語や英語のレベルも様々ですが、あくまでも “平均的” と思われる集団を想定しています。
日本語はC1を確保できているか?
さて、上の図を見ても今ひとつCEFRのレベルのあり様がわからないと思いますので、順番が前後しますが、CEFRの指標をごくごく簡潔にまとめたものを以下に示します。あくまで目安ですが、英検の級と英語の語彙、それを日本語の語彙の大きさに対応させています。かなり大目に見ているのであしからず。ご自身の言語の運用力、まずは英語の前に日本語がどうであるのかを参照してみてください。
A1 : 英検では5級から3級合格ライン程度。語彙は2000程度で日本人の幼児並み。
「挨拶文などの短く簡素な文章を書くことが出来る。名前や国籍、住所などの宿帳に記入するような個人情報を書くことが出来る。短い句や文章を使い、自分の住む地域や知人のことについて説明ことが出来る。」
A2 : 英検準2級合格ライン。語彙は3000程度で、日本の小学低学年レベルの国語力。
「日常的な会話や行動といった簡素で直接的な情報交換を要するコミュニケートが出来る。自身では会話に参加できるほどの理解は無いまでも、短い社交辞令程度は交わせる。」
B1 : 英検2級合格ライン。語彙は5000程度で日本人の小学高学年程度。
「経験、出来事、夢、希望、大望などを表現するために、文章を紡ぐ事が出来る。計画や意見に関して簡潔な説明をすることが出来る。本を朗読したり、本や映画の筋を話したり、感想を述べることが出来る。」
B2 : 英検準一級以上。語彙は8,000程度で日本人の中学生程度。
「自分の関心事に関係した幅広い題材に関して、明確で詳細にわたる文章を書ける。情報伝達の為の文章、または特定のポイントに関して賛否を説明するエッセイやリポートを書ける。」
C1 : 英検1級合格ライン以上。語彙は最低で10,000~15,000語で、日本人の高校生程度。
「複雑な題材に関する明確で詳細にわたる説明を、いくつかの副題にまとめつつ、自らの論点を発展させる事が出来る。さらに手際よく適切な結論へと導くことが出来る。」
C2 : 英検1級満点以上。知悉語数は30,000語以上で、日本人の平均的な大学生以上。
「自分の意見を淀みなく、微妙なニュアンスも的確に表現できる。仮に持論の論理性に問題が生じた時には、相手にほとんど気付かれることの無いほどの滑らかさを持って、話を元へと戻し問題点を迂回すべく文章を再構築することが出来る。確固たる自分のスタイルで柔軟かつ効果的に聞き手に話し、持論を明確且つ的確に表現することが出来る。」
いかがでしょうか。C2となると、持論を論理的に展開できるばかりでなく、論理の瑕疵に気づいても、うまくごまかせるようですね。同レベルの言語力の話者とのディベートでは、ごまかせないかもしれませんが、家族や友人との世間話、あるいは同僚との日常会話や、学部の授業くらいならどうにかなりそうです。
そうすると、言語の運用力という視点で見れば、BICS と CALP の境界はやはり、B2とC1の間にありそうです。つまりC1において、ようやく満足する言語運用力となるわけです。これは母語に関しては当然のこと、L2英語に関しても言えます。すると、L2でも高校での留学や、中学生で帰国する帰国子女などは前述したようにB2レベルに留まっていると考えられるので、彼らの英語力はアカデミックにおける学習には耐えられない程度ということができます。もちろん、言語能力は向上させることができますので、努力次第で BICS を CALP へと向上させることは可能ですが、単なる日常生活だけでは、なかなか CALP レベルへと言語能力を成長させることは難しいでしょう。
ところで、大学の授業に追いつかないという事象は、日本人が日本の大学に通った場合にも起き得るようです。以下、学業偏差値や偏差知能指数という概念も織り交ぜて見ていくことにしましょう。
偏差値と知能指数の関係
“WARNING!!” : ココは読み飛ばさないこと。
偏差値と豊かさには相関性がありません。また、知能指数と豊かさに関しても同様です。同時に所得と豊かさも、片や客観的な連続体であり、他方が主観的な離散的な指標であること自体、科学的な比較の対象にはなりえません。つまり、学業偏差値が低くとも高いお給料を取れる人もいるし、逆でもそうでない人もいる。知能指数が平均より低くても、それが豊かでないことにはなりません。その辺り、誤解のないように、お読み進めください。
さて、学業成績は個人のテストの出来具合に対して点数が返されます。しかし、各学年100万人もいるわけです。それで、全体はもちろん、地域ごとに絞ってみても、順位をつけるのも大変ですし、順位の範囲によって(例えば、全校生徒5人等)は付けてもあまり意味のある数字として響かない。そこで「偏差値」という便利な概念が一般的に使われるようになります。
少しおさらいをしましょう。偏差値とは正規分布を前提としていて、全体の平均から個々人がどれほど離れているかを直感的に提示することができます。偏差値は平均値を50として、そこから1SD(標準偏差)を10として算出されます。つまり、+1SDは偏差値60で+2SDは偏差値70といった具合です。マイナス方向も同様です。
平均から±1SD(偏差値40~60)には、それぞれ34.13%(合計68.26%)で40人クラスなら27名が含まれます。平均から+2SD(偏差値60-70)には13.59%で5名ないし6名で、同様に-2SDにも同じ人数がいます。±2SDに全人口の95.44%が含まれます。そして、+3SDの(偏差値70-80)に2%程度。-3SDも同様に2%で、それぞれ40人クラスには1名いるかいないか、という分布となります。
「偏差値か」でしょうし、「せっかく大人になって忘れていたのに、そんなこと聞きたくない」でしょう。ただ、偏差値は悪くもなんともなく、あくまでも、統計手法のひとつに過ぎません。ここでは、たまたま学業の偏差値を例示しましたが、身長や体重などの身体的な特徴や運動能力なども、正規分布を示す程度の十分なサンプルがあれば、偏差値で表すことができます。
さて、偏差値と似ているけど、偏差値ほどは身近でない概念に知能指数があります。知能とは「学習能力」あるいは「学習内容の応用力」などの基本的な認知力のことで、従って知能テストは、一般的に学校現場で行われている学業成績のようにその人が “何を知っているか” の評価値ではななく、その人が “どれくらい学習する能力があるのか” のざっとした指標となります。もちろん、テストのたびに、あるいは成長とともに知能指数は変わりますので、知能指数は頭の良さを図る指標というよりは、「学習に問題がある」など医療的・行政的に何らかの手当が必要な子などの極端なケースの判定手段のひとつに過ぎません。
知能指数を測定するためのテストには様々な種類があり、田中ビネーやウェクスラー式などが有名なところです。知能指数の算出方法はシンプルで、精神年齢を生活年齢で割って100をかけるだけです。つまり、何歳の段階で何歳児の精神年齢であるのかを測定する検査です。例えば、5歳児で知能指数120であれば、6歳児相当の精神年齢であることがわかります。従って10歳で知能指数120であれば、12歳相当の精神年齢であると評価されます。
知能は60歳くらいがピークと言われたりしますが、60歳の人が知能検査をして150と評価されたとして「あなたは90歳並みの精神年齢です」と言われても嬉しくはないでしょう。また、年齢が低すぎても正確に測定するのが難しくなります。そこで「言語理解・知覚推理、ワーキングメモリー・処理速度」などの複数の下位範疇を持つウェクスラーなどが幅広い年齢層に有効な指標として現在広く利用されています。
このウェクスラー式の偏差知能指数は、学業の偏差値と同じ発想で作られています。学校での偏差値との違いは、偏差値が50を平均としているところウェクスラーでは100が平均で、偏差値は1SDが10なのに対してウェクスラーは15という点です。つまり、偏差値60と70はウェクスラーではそれぞれ115と130となるわけです。従って、ウィクスラーで例えば IQ135 であれば、100パーセンタイルでは上位2%の知能指数ということになります。
語彙レベル
さて、なぜ偏差値とかIQの話をしているのかというと、以下のような理由によります。勉強ができるかどうか、あるいは精神年齢がどれくらいなのか、はたまた認知力のみならずウィクスラーで測定するところの、言語理解、知覚推理に欠かせない論理性、脳のスペックを表すワーキングメモリーやその処理速度など、個々の能力は正規分布を成しています。そして、子どもたち、あるいは大人も含めて、個々人がその分布のどの集団に位置するのかという点が、時には重要になることがあります。
ベストセラーとなった『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治著 新潮新書)では、少年院にいる子どもたちと発達障害・知的障害の関係についてかなり詳細に書かれています。ここでまた注意ですが、発達障害と知能とは無関係です。発達障害の子どもたちの中には極めてIQの高い子どももめずらしくありません。ただ、発達が凸凹していて、こだわりが強かったりなどの個性を持っているので、なかなか社会生活がスムーズにいかないことが少なくありません。
同書ではそのような個性や、知的なハンディを持った子どもたちを扱っているのですが、同じ著者が「境界知能」に関する書籍を最近立て続けに出版しています。著者の少年院の子どもたちとの経験もさることながら、そこまではいかないまでも多くの問題を抱えている子どもたちの日常を漫画という視覚的に理解しやすく、関係者も手に取りやすいモダリティーで提供してくれています。そこに映し出されている子ども、あるいは大人たちは、世の中から見落とされがちな「境界知能」の持ち主で、彼らの生きにくさや、問題行動などが心理学的に分析されています。
ここに至って、ようやく前節の説明が生きてくることになります。境界知能の持ち主とは、偏差知能指数において-1SDから-2SDの間に位置する子ども(大人)たちのことです。IQでは 70-84 の人たちです。知的障害とされるのは IQ70未満の人たちで、この人たちは生活面、学習面において様々な行政的支援を受けることができます。しかし、問題は、境界知能の人たちはそれらの支援からこぼれてしまう点なのです。
一般的な40人の教室を考えることにしましょう。IQが±1SD、つまり85-115の間には27名が収まることになります。つまり10歳を中心とした4年生のクラスに、IQ換算で8歳半相当から11歳半相当の精神年齢の子たちがいることになります。その27名に、上位の8名ほどが加わると35名位となり、(出来不出来はあるものの)彼らは知能的には問題ないレベルで授業を受けることとなります。
しかし、IQ85未満の境界知能となるとそうは行きません。なぜならば、例えば10歳でIQ85であれば、その子は8歳半並、IQ70であれば7歳並の認知力しかないことになります。4年生のクラスに2年生や1年生が5人ほど混じっている感じです。彼らは生活年齢はみんなと同じです。体育や図画工作などは問題ありません。ただ認知力や思考力が未発達なので、国語や理科などにおいては相当大変な思いをしていると想像できます。
さらに、彼らは言語使用や認知において課題があるものの、一般的には周囲に気づかれることはありません。最近では知能検査も行われなくなっているので、担当の先生ですら「なにかおかしい」と感じながらも「集中力がない」とか「やる気がない」などに原因を帰してしまって、彼らの認知力の問題に気づかないことが少なくないようなのです。
また、彼ら自身も「理解できないこと」「記憶力が弱いこと」などから目をそらそうとします。同時に他の子たちが普通にこなしている知的活動に追いついていけないのは、相当に辛いことなので、学業や理解力の点には自ら触れることなく、つまり「わからないから教えてください」ということなく、その場をやり過ごしていきます。そうこうしているうちに、社会に出てしまうことが珍しくないのです。
それでも大学に行けてしまう…
団塊世代の大学進学率は2割程度でした。単純に成績分布から上位20%の学生が進学したと推定すれば、偏差値で59以上の “ある程度以上” 学業が優秀な高校3年生たちが大学へと進学していたと考えられます。それが新人類世代では、三分の一ほどに上昇しています。上位33%だと偏差値で54くらいですので、まぁまぁ、勉強ができないわけでもない子も大学へ行くようになりました。
ところが、今日では大学進学の様相はずいぶん変化しています。ここ数年の大学進学率は、短大も合わせれば6割前後あります。その他、専門学校へ進学する人が2割、また就職する人も2割あります。着目すべきは、団塊世代における成績上位者や新人類世代における上・中位の人たちのみが大学へ進学していたのとは異なる現実がある点です。
昨今の奨学金(学生ローン)返済問題、非正規雇用を始めとした雇用の不安定さや、低迷する実質賃金など将来への不安、あるいは長引く不景気による高校生を持つ家庭の経済事情を考えれば、専門学校で手に職をつけたり、それこそ高校卒で働き始めることも極めて自然な選択です。つまり、勉強が得意な子でも大学へ進学しない子がいる一方、勉強がまったくできなくても大学へ進学する子がいるのが現実です。
もちろん勉強が苦手で、はなから就職を考えている子もいるでしょうけれども、平均より知能が高いにも関わらず大学進学しない子も多数存在します。その子たちの欠員分まで繰り上げで大学へ進学していると考えれば、かなりの数の境界知能の子たちが大学へ進学していると考えられます。
現に、大学生に対してbe動詞、進行形や過去形などを教えなくてはならない大学の英語教師たちがいるわけです。また、数学では分数や小数を教えなくてはならないようなこともあるそうです。これでは、研究に欠かせない確率や統計どころの話ではありません。
それもそのはずです。18歳の子どもたちの知能の分布で、仮にIQ80の子がいたとすると、その子は知能レベルは14歳で中学2年生程度の知能しか持ち合わせていないのです。流石に分数や小数すら身につけていないのは知能ばかりに問題があるとは言い切れないでしょう。しかし、英語のbe動詞や過去形などは、レベルとしては、変な話、丁度良いのかもしれません。それでも、おそらく卒業できてしまうのでしょうし、そうなれば、さらには下手をすれば奨学金を借りた状態で社会に放り出されてしまうわけです。大卒にも関わらず、なかなか社会生活もうまくいかない大人が存在するわけですが、これで頷けるのではないでしょうか。
ところで、どうやら日本人は世界の人々に比べてIQが11ポイントほど高いようです。これは結構な話です。ここまでの偏差値やIQやらの話で鬱々とした方も、少しは気分が晴れたのではないでしょうか。単純にIQに10ポイント足したものが世界における日本人個々人のIQであれば、日本における境界知能とされる人たちも世界標準に照らせば、普通の人となります。
これを書きながら、変に納得してしまったのですが、こんな経験をしたことがあります。私は高校2年で米国に留学して高3のクラスに編入しました。そんなことで、1年の留学で高校の卒業証書をもらってしまうことになります。そんな滞米生活の中で、特に仲が良かったのは私の高2に対して、日本の学制でいえば中3の子たちだったのです。部活が一緒ということもありましたが、何故かその年代の子たちといつも遊んでいました。
後でわかったことですが、どうやらその子たちは1年とか2年留年していたのです。今では知りませんが、当時留年は決して珍しいことではなかったのです。すると、2年留年した中学3年生の彼らの生活年齢は、僕と同じ高校2年生ということになります。しかし、彼らは精神年齢が1、2年分低かったわけです。ついでに、僕の英語力もCEFRに照らすか、あるいは英語の言語年齢というものがあれば、良くてB2、つまり中学生の上位程度。「なんだ、お互い中3か」ということで、道理で彼らと話が合ったわけです。
閑話休題。話を大学生に戻せば、彼らの口からは、良くても悪くても「やばい」、面白くなくても「うける」、都合が悪くなると「きもい」などなどよく聞くことになります。知能の高い学生もこれらの言葉を使いますが、そうでない学生もこれらの言葉をよく使います。つまり、よくよく話してみないと、頭が良いのか悪いのかが良くわからないのが、今日の社会における知能の分布なのです。
繰り返しますが、知能指数や偏差値が高ければ良い、という話をしているわけではありません。単に、世界に対する理解力が高い子もいれば、眼の前の現象をなかなか理解できずに苦しんでいる人もいて、その実態が分かりにくい、という点を述べていることを強調しておくことにします。
目指すべきバイリンガル
さて、ここで話をバイリンガルたちにおける日本語力と英語力に戻しましょう。さらに、わかりやすくするために、18歳で大学入学する時点での言語力を想定します。すると、理想は、日本語はアカデミックな学習に耐えうる知能であり、英語に関してはアカデミアに行けるかいけないかの境界かそれ以上の能力、言い換えれば1年間留学した学生とか、中学で帰ってきた帰国子女レベルということになります。すると、理想的なバイリンガルの言語能力をCEFRで示すと以下のようになります。
日本語では幅広いジャンルで持論を展開できて、英語でも聴解力や読解力に問題がなく、大抵のことは理解できる。まぁ、このくらいの言語力があれば、18歳としては “とりあえず” 十分でしょう。さらに、ここに乗せれば、大学4年間で、日本語も英語もそれぞれ1レベルずつ向上させることができます。つまり日本語はC2で、英語はC1レベルの理想的なビジネスマンの言語力に近づくことになります。反面、前節で述べたような少し残念な大学生もいます。
彼らの英語力は、英検3級にも満たないA1あるいはそれ以下レベルです。また、母語である日本語に関しても中学生程度の言語能力であれば良くてB2あるいはそれ以下レベルです。つまり、以下のようになります。すでに上で述べてきたので、改めて説明するまでもありませんが、これは中学生レベルの学力であることを強調しておきます。
次に、バイリンガルという点では、インターナショナルスクールに通う学生を見てみると、以下のようになります。
彼らは、母語ではなくL2の英語が第一言語になりますが、言語能力やそれをベースにした社会活動(日本ではなく英語圏を想定)の点においては日本語優位のバイリンガルと何ら変わることはありません。彼らも大学4年間で勉学に励めば、少なくとも英語においてはワンランクレベルアップできます。さらに奇特にも母語である日本語に力を入れることができれば、日本語すらもC1レベルにまで向上させることが可能でしょう。
それでは、最後にダブル・リミテッドの言語力を示しておくことにしましょう。
彼らは「残念な大学生」と同様に、C1に到達している言語を持っていません。ただ、救いとして「残念な大学生」と異なる点は、彼らの英語力がB2に到達している点です。つまり、日本の社会においては “立派なバイリンガル” なのです。そして、当然のことながら、彼らも大学4年間、切磋琢磨すれば、言語レベルを少なくとも一つずつ高めることができます。大学院へ進学でもすれば、当然のことながら更に言語能力を向上させることはできます。
こんな若者たちには、せっかく日本語も英語も BICS レベルをクリアしているわけですから、ぜひ奮発してCALPレベルを目指してもらいたいものです。
さて、それでは、どのように大学1年生までに日本語をC1レベルに、そして英語をB2レベルまで高めることができるのでしょうか。
これに関しては、皆様すでにご存知のはずですので、もう書く必要がないでしょう。あえて言うならば、小学卒業までに以下のレベルを目指してください。
結論。
英語は、英検準2級レベルで構いません。小学生でA2をクリアしておけば、後は多読をするだけで、中学生で B1 から高校生の早い段階でB2を目指すことができます。国語の能力においては、小学生のうちに偏差知能指数に置き換えると125程度、できれば+2SDの130で中学3年生くらいの理解・運用力を目指しておきましょう。
今回はあまり触れませんでしたが、幼児向けの語彙力テストで PTV-R「絵画語彙発達検査」があります。これは平均を10、1SDを3で表すシステムです。一般に受けることはできませんが、言語聴覚とか幼児の言語発達の研究では良く使われるテストです。知能テストではなく語彙発達の検査ですが、語彙は国語力の基礎となるので、参考になる指標です。こちらでも+2SD以上が「極めて優秀」と評価されます。
おそらく「パルキッズ」をお使いのご家庭、特に「地頭力講座」と「幼児教室プログラム」をお使いのご家庭では、1・2歳プラスに出るでしょうから、その辺りを目安にせっせと日本語教育に注力してください。英語に関しては、すでに述べたように小学生のうちに A2 で十分ですので、ゆっくり慌てず、「パルキッズ」で実力を培ってください。
【編集後記】
今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
★留学派? 国内進学派? どっちがお得?
★英会話は最初じゃなくて最後にやろう
★『パルキッズ』が目指すバイリンガル教育
★「覚える」より「考える」ことを好む子どもに育てる方法
★「インプット」で育てる「国語力」が学力すべての土台となります
【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)
児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。
船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。