2024年8月号特集
Vol.317 | ここらで一休みしませんか
ゆったりすることで変わる景色
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2408/
船津洋『ここらで一休みしませんか』(株式会社 児童英語研究所、2024年)
「焦らない」
「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」とは、昭和世代ならご存知のはずの「あわてない、あわてない」で有名な一休さんのことばです。生きるとは、煩悩の世界から悟りの世界へ行く道のりで、その途中で「まぁ、一休みしましょう」という意味だそうです。
お坊さんとは偉いもので、いかに悟りを開くかを常に心に留めているそうです。仏教の中でも禅宗(と一纏めにして良いのかどうかは別として)の臨済宗では、「公案」とよばれる、お題とそれについての思考を深める作業を通して真理を求めます。一休さんの世界ですね。それに対して曹洞宗では、「只管打坐」を通して悟りを開こうとします。これ、面白くて、何もしない。ただ座るだけなんですね。何も考えない。悟ろうとすることすら考えない。無念無想の世界。何も考えないのですが、偶然入り込んだ想念は排除せずに、それに関して内省、観察する。私のような凡人には、想像を絶する世界観です。
ただ、凡人にも仏教から学べることは少なくありません。禅の世界では、眼の前の事象に惑わされることなく、ひたすら自分のやるべきことを繰り返す。つまり、日常の事どもを丁寧に繰り返す。その中に仏がいるそうです。慌ただしい現代社会においては、顔を洗う、食事の準備をする、掃除をする、勉強をする、あるいは仕事をする中で、常に時間に追われています。やること、やるべきこと、あるいはやりたいことが多すぎるのでしょう。つまり、プラスで積み上げてしまう。
すると、手前のこと、日常の卑近なことから雑になりがちです。「心此処にあらざれば」云々の如く、そこにあるものも見えず、大切なメッセージも受信できなくなります。日々慌ただしくしているご家庭においては、ご両親も子どもたちの微細な変化や成長にも気付けないかもしれません。
旅行に行っても、慌ただしく観光名所をめぐり、”映える” 写真を撮ったり、その地に関する知識の詰め込みに終始し、渋滞や混雑する交通機関での移動を経て、這々の体で帰宅すれば、「やはり家が一番」などとのたまう。これ最早、現代人の心の病「やらなきゃ病」の様相を呈しています。ゆっくりしようよ。
空を見上げてみる。雨に濡れた土や木の匂いを感じてみる。空調の効いた車内から出て外の空気を感じてみる。これはわざわざ観光地に行かなくても、日々の暮らしの中でできることです。しかし、です。自分を取り囲んでいる世界を、五感を通して感じることは、現代人にとっては最早、一種の贅沢なのかもしれません。なぜなら、それには時間的な余裕やそれを可能にする精神的な余裕が必要となるからです。
そのような時間的、あるいは精神的な余裕は「作ろう」と思えば作れます。しかし、やること、やるべきこと、やりたいことの虜になっているうちには、そのような心の余裕を持つことは困難でしょう。過去にも「自然と増えてしまうもの」を「いかに減らすか」について、何度か書いていますが(『パルキッズ通信2023年3月号』)、情報リテラシーを心がけたり、あるいは自らの価値観を信用する姿勢を持っていなければ、周囲に流されてしまいます。すると、周りばかり見て、終いには良し悪しの判断すら、誰が発したかわからない、無責任な口コミに頼るようになってしまいます。
せっかくの夏休みです。ここはひとつ、一休さんに学んで、慌てず騒がず、心安らかにひと休みしてみるのはどうでしょう。ということで、今回は、心を落ち着けて育児に臨む姿勢を、ゆっくりと眺めてみることにいたしましょう。
焦るとはどういうことか…
一休さんは「慌てない」と仰ったそうですが、『パルキッズ通信』では「焦らない」に関して、過去に特集したことがあります。そこでは、育児における様々な問題は焦ることに起因するので、焦らずに心穏やかに過ごしましょう、と説いています。ところで、「慌てる」と「焦る」は何が違うのでしょう。念の為、JapanKnowledgeにあたってみると、
あせ・る【焦る】[動ラ五(四)]
1 早くしなければならないと思っていらだつ。気をもむ。落ち着きを失う。気がせく。「勝負を―・る」「―・ってしくじる」
2 不意のことで動揺し、あわてる意の俗語。「乗り遅れるかと―・ったよ」
3 いらだって暴れる。手足をばたばたさせる。
【デジタル大辞泉】
慌てるの方はというと、以下のようになっています。
あわ・てる【慌てる/周=章てる】[動タ下一][文]あわ・つ[タ下二]
1 思いがけない物事に出会って、ふだんの落ち着きを失う。うろたえる。狼狽(ろうばい)する。「突然の知らせにすっかり―・てた」
2 (「あわてて…する」の形で)急いで…する。「―・てて駆けつける」 【デジタル大辞泉】
見比べてみると、「慌てる」の定義は「焦る」の定義の部分集合を成しているように見えます。つまり、「焦る」は「慌てる」の概念を含んでいる。また、別の辞書の「焦る」の項には以下の既述があります。
(2)思い通りに事が運ばないので、急いでしようとして落ち着かなくなる。気がいらだつ。気をもむ。じりじりする。
【日本国語大辞典】
つまり、「焦る」とは「予期せず起こった(あるいは予想と異なる)目の前の事象に対して落ち着きを失い、狼狽し、結果として気をもんだり、急いたり、慌てたり、いらいらしたりすること」と言えるでしょう。『パルキッズ通信2023年11月号』では、その原因として思考が ‘behind’ になっていることがあり、’think ahead’ が大切だと述べました。言い換えれば、常に予測を立てておけば、眼の前の事どもの大半は「想定内」に収まります。そうなれば、「焦る」こともぐっと少なくなるはずです。
しかし、 ‘think ahead’ ができていなければ、あらゆることが「想定外」となってしまいます。結果として「焦り」が生じることとなります。世間では「焦りは禁物」と言われます。なぜなら焦ることは、危険に直結するからです。「急いてはことを仕損じる」ことになり、ことを仕損じてしまえば、結果として一度で物事を終わらせることができず、二度三度と手間ばかり増えることになります。英語教材をあちらこちらへフラフラと放浪している方々は、まさにこの状態でしょうか。
「急がば回れ」とは「もののふの やばせの舟は はやくとも いそかはまはれ せたの長はし」の歌から生まれていると言われます。「草津から大津に向けては、矢橋(やばせ)から船で渡れば速いけれども、比叡山からの吹き下ろしの風で危険な航路なので、少し遠回りだが瀬田の唐橋(からはし)を渡りなさい」という意味です。
船がひっくり返ってしまえば、二度手間どころか元も子もないわけですから、急ぐ道のりであればこそ、なお慎重に安全で、しかも確実な道を行きなさいということ。英語教育になぞらえれば、あれこれ焦らずに、「パルキッズ」でゆっくりやりましょうよ、ということにでもなりましょうか。
焦る主要因2つ : 「想定外」と「知識不足」
「焦る」原因は上で述べたように、ひとつに「予期せず」「想定外」に何かが起こってしまうことがあります。またあるいは「知識が不足していて」正しく予測できず、「予想と異なる」ことが起こることも焦る原因となります。順に見ていくことにしましょう。
まずは、「予期せず」に起きる方に目を向けてみます。予期せずになにか事が起きてしまう、つまり「想定外」の事象が発生するというのはどういうことでしょうか。日常的に予期できない、想定できないようなことには、どのようなことがあるでしょうか。
例えば、出先で雨に降られる。あるいは帰ろうと思ったら外は雨だった。これは想定外でしょうか。いやいや、そんな事はありません。出掛けに天気予報を確認すれば済むことです。もちろん、大気が不安定で雷雨になることもありますし、南の島ではスコールがあるかもしれません。しかし、それらも広い意味では想定の範囲外ではないでしょう。夏場には大気が不安定になることは当然のことですし、突然の雷雨も珍しくはありません。雨に降られることが予期できれば、鞄に折り畳み傘を忍ばせておけば済むことでしょう。
また、これを逆手に取るなら、一休さんよろしく「降るなら降りなさい」、あるいは半平太張りに「春雨じゃ、濡れてまいろう」も風情があります。雨という景色や空気を五感を通して楽しむと考えれば、走ることもなく、ゆったりと歩けます。焦って走って怪我などの無粋をするよりは、余程、粋です。
あるいは、災害や事故に遭遇することもあるでしょう。これに関しても『パルキッズ通信2024年1月号』で述べたように、事前の心の準備、つまり「そんなことは起こり得る」そして「その時はこうする」と決めたり、事前に物理的な備えをしておいたりすることはできます。そうすれば、いざという時にも焦ることなく、冷静沈着に行動できることでしょう。
病気や怪我に際しても同じこと。若さにかまけて、養生を怠り、不摂生を繰り返し、あるいはストレスを溜め込むような生活を繰り返せば、心も身体も弱っていきます。そうなれば、あるいは病にかかることも予想できます。また、体力や技能の及ばないほどの行動を取れば、怪我をする確率が高まるのも自然の摂理です。このような場合は、まったく予測できないわけがありません。予測できるなら「適度にさぼる」あるいは「頑張りすぎない」ように、心や生活をリセットして、ストレスを少しでも軽減するように手を打てば良いのです。命あっての物種ですぞ。
子どもや家族の病気も、まったく予測できないわけではありません。学校で怪我をするなどは「当然あること」と前提しておいて、子どもにも危険を回避できるような運動神経と、危険に近づかないような思考を身につけさせる、あるいは他人とトラブルにならないような人間性を身につけさせておくことで、大抵のトラブルは回避できることでしょう。そして、何事かが起きた場合も、心配で心が揺れることはあっても、ゆっくり、しかし迅速に事に当たることができるはずです。
車や家電の故障、あるいはインターネットの接続の問題なども、「起こる」ものとして想定して、バックアップ体制を準備しておけば、それこそ事に際して冷静に対応できることでしょう。
そもそもの予測が間違っている「知識不足」
以上のように、常識の範囲内で理解できること、あるいは物事の道理として結論がわかる、予測できることに関して「予期せず」「想定外」の事が起こることは、日頃から’ think ahead’ を心がけてシミュレートしておけば回避できます。しかし、専門的なことや、想像や理解の範囲を超えることに関しては、そもそも正しく予測することができません。正しく予測できなければ、想定外のことが起こるのはむしろ当然のことです。
思い通りにいかないということは、「正しい予測ができていない」ことに起因するわけですが、これは子どもの教育においても日々起こっています。せっかくですから、英語の話をいくつかしましょう。例えば、「音源をかけ流したが、無反応なので意味がない」「半年間インプットしたが、何もアウトプットがない」「1年経ったが、英語で話をしてくれない」「2年経ったが、まだ読めない」などなど、枚挙に暇はありませんが、これらすべて「正しく予測できていない」結果の発言です。順に見ていくことにしましょう。
そもそも、英語の音声をかけ流すにおいて、子どもからのどのような反応を期待しているのでしょうか。子どもが「ふむふむ、英語とは楽しいものだ」と聞き入ることを期待したのでしょうか?あるいは、「英語の発音はこうなんだよ」と音に合わせてリピートすることを期待しているのでしょうか?
幼児の言語習得の第一段階は、大量入力によって帰納的に音素と音節構造、さらには超分節音のプロソディーやイントネーションの規則を発見することです。これは、英語の音に晒されるうちに、無意識のうちに処理されます。そもそも音素や音節構造、プロソディーやイントネーションなど、日本の英語教育では一切教えられることがありません。しかも、ここが英語の基礎なのです。でも、誰もこれについて語らない。それどころか、文法訳読でなければ、英会話だ、となっている。官民は仕方ないとしてアカデミアまでも、思考停止の様相を呈しています。
その大切な基礎部分を、インプットで育てようとしているわけですが、すでに述べたように、これらは教えられることがないどころか、簡単に教えられるものではありません。そもそも言語学をある程度まで学んだ者でなければ、これらの概念を正確に理解することも困難でしょう。しかし、これらの能力は人間が生まれながらに持つ言語能力を発揮させれば、簡単に習得できます。それには大量の入力が必要なのであって、入力しているときの子どもの反応など、一切問題ではないのです。
「アウトプットがない」、「英語で話してくれない」というのも、予測が間違っています。アウトプットというのは幼児期の喃語のような調音練習の意味があります。しかし、これは「ママ、これからアウトプットするので聞いていてね」というように、必ずしも目立つ形で行われるわけではありません。一人で日本語の絵本を眺めているとき、積み木で遊んでいるときなど、ふとした瞬間に、子どもたちの頭の中を英語の音がよぎり、それを口にすることもあるでしょう。また、バイリンガルの方ならご理解いただけると思いますが、日本人ばかりの中で、英語を口にすることは大変な違和感を伴います。つまり、子どもたちが、英語の音素や音節、プロソディーなどの正しい知識を身につけたからといって、英語を口にしてくれることは期待できないのです。しかし、単純に「インプットすれば、必ずアウトプットがある」という信念を持っている方も少なくありません。よろしいでしょうか、これは誤った「予測」なのです。
読みが始まらないというのも、焦りすぎでしょう。例えば、ピアノの読譜ができるようになるには、どのくらい時間がかかるでしょうか。開始年齢にも拠りますが、2、3年は軽く見ておくのが通常でしょう。西洋音階と英語を単純に難易の差で断じることははばかられますが、英語は綴りも音声と一致しておらず、非常に読みにくい言語であることを考えれば、あるいは、ネイティブの子どもたちでも英語を身につけてから小学生になる頃まではスラスラ読めないという現実を考えれば、少なくとも4年から5年くらい、英語の読解力に関しては時間が掛かるものと考えるのが正常な判断でしょう。
思い通りに行かないと
そして、思い通りに行かないと、学習が進んでいないと感じてしまう。繰り返しますが、そもそもの「予測」に誤りがあるのですから、思い通りに行かないのは当たり前のことです。冷静に考えれば、アウトプットがないこと、英語で会話しないこと、なかなか読めるようにならないことなどは、それこそ「予測可能」なことです。しかし、知識不足から想定を誤ってしまっている、親御さんご本人にとっては「思いがけないこと」なのでしょう。そして「動揺し」「うろたえる」。つまり焦ることになります。
焦りは判断を誤らせます。そして、「急がば回れ」を忘れて、すぐに欲しいものを手に入れられそうな、つまり子どもの反応、アウトプットなどが得られそうな方向へと流れていきます。当然のこととして、インプットが疎かになってしまい、結果として英語が身につくことはないでしょう。大いなる回り道となります。
見通しが立たないので、とりあえず先取り
先の見通しが立たないということは、恐ろしいことです。社会のシステムに乗っかっていれば安泰だった昭和は遠くなりにけり。平成不況を経て、令和の今日において、もちろん社会保障という最後の切り札はありますが、できれば自立したい人たちにとっては、将来への不安を持たずに済むなどということは、一部の極めて幸せな集団にのみ起きていることなのかもしれません。
子どもとの関係に関して言えば、特に都市部では、子どもを持つこと自体がすでに贅沢な世の中になっているようです。そうなると、育児に関しても失敗を恐れるのは当然のことです。そんなご家庭では、道を踏み外さないように慎重に育児の方針、教育の方針を検討することになります。
そんなご時世を反映してか、今や一般的となっている「先取り学習」について見てみましょう。おそらく、「どうせ勉強するなら、先取りして悪いことはないだろう」とか、あるいは「先取りしておけば、実際にその学習レベルの段になれば、ラクに学習が進むだろう」はたまた「来る受験に備えて、今できることは早めにやっておこう」という思考がその根っこにあるのでしょう。結果として、小学生に微積分をやらせるというのですから、驚きも驚き、先取り学習も極まった感があります。
ところで、この先取り学習、弊害はないのでしょうか。
ここは、常々警鐘を鳴らしているところでもありますが、先取り学習に取り組むご家庭においては、ヒトは「理解できないと記憶するしかない」という単純な摂理について、もう少し考えてみる必要があると思います。
小学3年生になると、それまでは計算中心だった算数に文章題が増えてきます。計算ばかりやっている子は、それは計算は得意でしょう。大変結構なことです。また、プリントなどで先取りをしていれば、問題のパターンをよく知っているので、テストでも良い点が取れるでしょう。これまた結構なことです。先取り学習万々歳。
しかし、です。これは単にパターンに則った問題が解けるようになるだけのことであって、パターンから外れている問題となると、そう簡単にはいかないようです。応用ができない知識。つまり高等教育や実社会では役に立たない知識の記憶に過ぎない可能性があります。
例えば「AからBまでは平均時速40キロで進み、BからAに戻る際には平均時速60キロでした。全体の平均時速は何キロでしょう」という問題があったとします。答えは時速48キロです。
このような問題を解けない子が少なくないようです。しかも、勉強が苦手な子ではなく、成績優秀な、あるいは先取り学習をしてきたような、計算が得意な子にとっても、この程度の問題が難しいようです。
ここには少なくとも2つの問題点があります。ひとつに、その子たちが「嵩(かさ)」がわかっていない点です。そして、もうひとつは、与えられた数値を、式や公式に当てはめようとする点です。上の問題では、時間も距離も与えられておらず、あるのは2つの時速だけです。すると、「速さかける時間は距離である」という、いわゆる「はじき」の公式が使えません。「さて、困った」と、行き詰まると次の手は平均を求める式、つまり与えられた項目をすべて足して、項目数で割ることになります。これしか手立てがないのです。そして「平均時速50キロ」という誤答へ誘われるわけです。
与えられた数字を公式に当てはめようとする前に、この設問を正しく理解する必要があります。そのためには、「嵩」の感覚が必要となります。嵩とは量のことです。この場合、時間と距離が嵩となります。これ以上の説明は割愛しますが、計算問題やパターンの学習ばかりで、肝心な「嵩」の感覚を身につけることをなおざりにすることで、このような「式が与えられれば問題を解ける」が「問題から式を導くことができない子」が量産されていくのです。
みんながやっているから…
さらに先取り学習に関して、もうひとつの弊害を言えば、「学習」という高次の知的活動が「作業」という低次の知的活動として刷り込まれてしまうことになる点でしょう。日々の学習は「考え」てこそ意味があります。考えるから、仕組みがわかる。仕組みがわかることは楽しい。そして、楽しいからさらに学習する、という正のスパイラルが誕生します。
しかし、この学習から「考える」ことを取り去ってしまうのが、事務的な「作業としての学習」でしょう。大人でも同じ作業を延々と与えられれば、ただひたすらこなすだけの作業を、いかに早くやっつけるかがテーマとなります。子どもも同じです。いかに速く、しかも正確に作業をこなすかに集中するようになります。ここには、深い思考の入り込む余地はありません。
深い思考力を育てるためには、考える時間が必要です。同時に、豊かな語彙と高い理解力がなければ、深い思考はできません。幼児期や小学生の早い段階こそ、これらの語彙と理解力を育て、思考することを習慣づける必要があります。その大切な時期が、単純作業で奪われていくのですが、その事に気づいている人は少ないのではないでしょうか。
先取り学習の中の、特に算数を例示しましたが、これは先取り学習に限ったことではありません。英検も然り、プログラミング教育も金融教育も然りです。
子どもの成長は、早ければ良いというものではありません。適切な時期に、適切な能力が育っていれば良いのです。小学生で英検1級を受けるような子をたまに見かけますが、すごいなぁ、と感心する反面、他のことはどうなっているんだろうと、余計な心配をしてしまいます。
「パルキッズ」では、小学生で英検準2級、中学生で2級、中学校高学年から高校1、2年生で準1級というのを到達目安にしています。これだけでも、かなり日本の英語学習のスタンダードを凌駕しているのですが、それ以上を目指す人たちがいるわけです。感心してしまいます。
先月号で特集しましたが、大切なのは L1(母語)である日本語です。まずは、L1 の日本語で、”CEFR : Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment、外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠、セファール” で示すところの C1 を目指すことが先決です。できれば、小学高学年でL1はC1を達成すれば、中学生でC2の運用力を持てます。C2といえば、十分に社会人として認められる言語運用能力です。そのうえで、L2(第二言語)の英語に関しては、高校までにB2からC1の入口くらいまで育っていれば十分なのです。
プログラミング学習も同様です。プログラムとは論理の権化です。「こうして、こうすると、こうなる」という論理が頭の中で整理できていて、それをできる限りシンプルに組み上げていくのがプログラムです。眼の前の複雑な課題をひとつずつ分解して、本質をえぐり出し、取捨選択していくことができるのが、優秀なSEやプログラマーでしょう。そこには、論理性を伴った高い思考力が必要です。
思考力もおぼつかない、国語力も満足でない子に、表面的なプログラム教育がどれほど意味があるのか、門外漢の私等には想像もつきません。ただし、繰り返しになりますが、プログラムの前に国語力ではないか?あるいは自然科学を国語力のフィルターで理解できる能力ではないのかな?と考えるのは十分に常識的だと思いますが、皆様はいかがでしょうか。
赤信号みんなで渡れば怖くない、などというのは愚かなことです。同調性バイアスを排除して、一度立ち止まって考えてみる。慌てず騒がず一休みして、心穏やかに、「本当にこれでよいのか?」と考えてみることが、今、子育てする親たちに求められているのではないでしょうか。
こう感じたら危険信号
さて、不測の事態、あるいは将来の不安から、心中穏やかさを失い焦ってしまうことによって、今の日本の民間教育が成立している側面について見てきました。同時に、「みんなが同じことをやっているので安心できる」心理があることも述べました。さらに、そんなときに一休みして、沈思黙考することもおすすめしました。
さて、最後になりますが、ここからは、そんな「焦り」のサインを見ていくことにしましょう。これから述べるような心理状態になったら「すわ、私は焦っているのか!」とご自身を振り返ってみると良いでしょう。他にもあると思いますが、ここでは「比べる」「急かす」「叱る」「否定する」「教える」について、順に見ていくことにします。
まずは「比べる」。隣の芝生は青く見えるものです。普段から接している我が子の成長はなかなか見えにくいものです。上で述べたように、忙しさにかまけて「心此処にあらざれば…」となれば、ただでさえ客観視しにくいわが子の成長は、余計見えなくなります。ましてや、小学校にでも通い始めれば、そこでの様子はわからないわけです。子どもと常に話し合う習慣を作っていない家庭では、子どもの成長は、最早気づく対象にもならないでしょう。
そんな、ひとつも変わらない我が子に対して、隣の子どもが優れて見えてしまうのです。ちなみに、これは隣のご家庭も同じこと。彼らにとっては隣の子である我が子が、優秀に見えているかもしれないわけです。我が子より人の子が優秀に思えるような心理状態になったら、一度立ち止まり、わが子のことをもう少し良く観察するようにしてみましょう。
続いて「急かす」です。子どもがグズグズしている、勉強もしないで漫画ばかり読んでいる。学校の準備もせずに遊んでいる。すると「何してるの。早くしなさい」となるわけです。この根底にあるのは、親の側のゆとりのなさです。子どもがグズグズすることなどは事前に「予測」できるはずです。そうであれば、時間に余裕を持って子どもに注意を与えられるでしょう。「まずは学校の準備ね」「そろそろ着替えなさい」「そうしたら好きな本でも読んでいなさい」と声掛けし、時間になったら「いってらっしゃい」で良いのです。
しかし、親自身が時間に追われていて、眼の前の事に手いっぱいだと、気づけば「こんな時間」「ほら急ぎなさい」となります。本来であれば、日常のことは自分でできるように習慣づけなくてはいけませんが、このように事前に注意されずに、直前に指示ばかり出されて育つと、「言われるまでやらない」子に育ってしまうかもしれません。クワバラクワバラ。こんなパターンになっているご家庭では、ひとつ声掛けの方法を見直してみる必要があるでしょう。
次に「叱る」。私のもとに、生まれてきてくれただけでありがたい、と感じる親も、日常の忙しさにかまけて、「なんであなたはこうなのよ」という気持ちになることもありますね。例えば、オンラインレッスンを早送りする。ビデオ部分などはタイムラインをスライドさせてしまう、などということもあるでしょう。また、クイズに関してもテキトーにポチポチやっていることもあるかもしれません。そんな場面に出会したら、こんなことでは学習にならない!とばかりに「あなた何やってるの?」と叱ってしまう。
いやいや、待ってくださいな。毎日レッスンに取り組んでいるだけでも「めっけもん」ではありませんか?「学習習慣」が身についているわけです。子どもからしたら「もう散々見たから、わかっているよ」という内容に関して、少しぐらい「時短」して怒られてしまったら、やる気も失せるというものです。「やってるだけでめっけもん」ですし「やっていればできるようになる」わけです。そもそも、取り組み自体がインプットになっていますし、学習習慣も身につき始めているのであれば、そこは「叱る」ところではないですね。胸に手を当てて、反省してみてください。
あと2つですが、まずは「否定する」こと。これは絶対にやめましょう。せっかくやる気があっても、せっかく取り組んでいても、せっかく頑張っていても、否定されればやる気をなくしてしまいます。なぜ否定するのでしょう。おそらく、ここまで述べてきた、比べる、急かす、叱る、の連続の上で、どうにも改善されない様子を見て、子どものことを「だめねぇ」と否定してしまうのでしょう。もう説明するまでもないでしょう。
最後に、重要であり、かつ見落とされている点が「教える」ということです。ここまでの4つを回避しても、この一点を避けなければ、子どものやる気が失せてしまうことになりかねません。こんなことを書くと「教えることの何が悪いんだ」という声が聞こえてきそうですね。しかし、教えるというのはどういうことでしょうか。子どもがわからないことがあったら、教える。これは一見良さそうなことですが、まず重要なのは「考えさせること」です。その上で、どうしてもわからないようであれば、「ヒントを与える」。大抵そこで子どもたちは「あー」と答えにたどり着きます。それでもわからない場合はどうしたら良いでしょう。教えてしまう?もちろん教え方が上手であれば、それは深い理解に繋がることがあるかもしれません。しかし、自分で苦労して見つけた理解とは質が異なります。さらに言えば、教えられた答えを理解できなければ、子ども達は、それを記憶しようとするのです。
「教える」ことに関しては、これだけでもう一本、特集をかけるくらいのボリュームになるので、本稿でこれ以上立ち入ることは叶いませんが、教えて上手く行くのなら、日本の教育はすべて上手く行っているはずです。教えよう、という気持ちが起こったら、まずグッと堪えてみるのが、賢明でしょう。
さて、今回は一休さんから、焦らない、そして焦った気持ちの兆候が見えたら、内省してみることについて書いてまいりました。少し時間の取れる夏休みです。慌ただしい日常から1日でも、半日でも、それこそ、数時間でも離れてみる。あるいは、ほんの一瞬でも立ち止まって、辺りを見渡す、空気を感じてみる。慌ただしい日常から離れて、スローダウンする。少しゆったりすることから、見える景色も変わってくるはずです。
【編集後記】
今回の記事をご覧になった方におすすめの記事をご紹介いたします。ぜひ下記の記事も併せてご覧ください。
★都会で行うスローな育児
★成果の上がらない学習法の見極め方
★子どもの教育に悩むたった2つの理由
★英語教室と幼児向け教室の役割
★なぜ、勉強しなければいけないの?
【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)
児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。
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船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。