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2024年9月号特集

Vol.318 |「それ知ってる」から始まる「知の世界」

インプットの種まきから全ては始まる

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2409/
船津洋『「それ知ってる」から始まる「知の世界」』(株式会社 児童英語研究所、2024年)


英語のインプットと国語のインプット

英語のインプットと国語のインプット 「パルキッズ」では、言語学習における最も重要なポイントを「インプット」に置いています。英語を身につける場合にもインプットを欠かすことはできませんし、国語力を向上させるためにもインプットを欠かすことはできません。英語はインプットで身につけさせ、国語力はインプットで伸ばす、という考え方が、我々が提供する学習システムの基調です。逆に言えば、インプットのないところに、英語力の獲得も国語力の向上もありえないと考えています。
 しかし、インプット懐疑派はこう考えます。「意味のわからないものを聞いて、なぜ理解できるようになるのか?」とは言っても、これは、英語の習得に関しての話。インプット懐疑派の皆様方からも、国語力に関してはインプットに反対するご意見はあまり聞きません。例えば、「門前の小僧、習わぬ経を読む」、あるいは、かつては小さい子たちが論語を習っていたと聞いても、「意味もわからないお経、あるいは論語を覚えることに、どんな意味があるのか」とは言いません。逆に、「予めインプットしておくことは良いことではないか」とも聞こえてきそうです。英語におけるインプット懐疑派の皆様も、国語においてのこの点に関しては、私どもの「インプット」重視の姿勢と親和性が高い。
 なぜ、英語はインプットではダメで、国語はインプットで良いのか。両方とも意味のわからない音声であることに変わりはありません。しかし、英語はだめで、国語は将来のためになる、というわけです。

 ところで、国語、あるいは日本語のインプットに関しては、我々にはもう一段階深い考察があります。それは、記憶 “だけ” のためのインプットは避けた方が良いという点です。
 これは、過去の『パルキッズ通信』でも、記憶と理解という対立を想定して何度か特集してきました。記憶とは低次の作業で、反対に理解とは高次の精神作用という論調で述べてきました。例えば、歴史を勉強するにあたって、年表の丸暗記などよりも、なぜその時代に特定の事柄が起こったのかを考える、あるいは理解するほうが余程大切であり、本当の意味での歴史の勉強になることは自明です。結果、時間軸における細かい流れがわかれば、年表の丸暗記などしなくても、何年に何が起きたかは、思い出す、あるいは考えることができます。
 また、算数の公式を丸暗記して、それらの公式に問題文に出てくる変数を当てはめていくことで問題を解くやり方も同様です。こちらは、記憶と反復学習によって、与えられた問題を解く能力を高めているだけであって、実社会で直面するような問題に応用できないケースが少なくありません。これは、今時の大学生を見ていて、しみじみ思う点です。彼らは小学生が解けるような問題に手こずるのです。
 我々はこのような観点から、記憶よりも理解することに焦点を当てた教育をすることを、常々推奨しています。
 ところで、私どもはここ数年、英語のみでなく、英語以外の言語教材、たとえばスペイン語やフランス語、ドイツ語や中国語などの教材を販売しています。同時に、国語の能力を高める教材として「幼児教室プログラム」や「漢検マスター」などを提供しています。これらの教材はすべて、インプットを中心に学習を進める仕組みになっていますが、上で述べた低次の「記憶」に終始した学習法と何が異なるのでしょう。
 今回は、英語のインプットに関しては軽く触れつつ、国語の能力向上におけるインプットと記憶、記憶と理解の関係について考えていくことにいたしましょう。


英語に関してさらっと

英語に関してさらっと インプットが足りない英語学習の代表は、いわゆる「学校英語」です。学校英語の成果として、英語の文法知識は英語ネイティブ以上に持つことになりますが、実際の運用力は「ほとんど」と言って良いほど育つことはありません。逆に英語ネイティブ話者は、英語の文法知識はほとんど持ち合わせていないにも関わらず、英語を十二分に運用できます。日本語に置き換えて想像してみれば自明ですが、我々日本人は、日常の日本語の使用において文法を意識することはほとんどありませんし、日本語の文法知識については、日本語を学ぶ外国人には及ばないでしょう。それでも、日本語は満足に使いこなせる。つまり、文法知識と実際の言語の運用は、まったく別次元のことと言えます。
 そんな中で、日本人でありながら英語を使いこなせるようになる人も存在します。ひとつに留学生、あるいは帰国子女が挙げられるでしょう。また、帰国子女と似た環境、つまり学校では英語で過ごし家庭では日本語で過ごす、インターナショナルスクールの学生たちも英語を使いこなすようになります。さらに「純ジャパ」と呼ばれる、海外経験がまったく無く、英語の環境に育つことがないにも関わらず英語を身につける猛者もいます。
 彼らはどのように英語を身につけたのでしょうか。あるいは、彼らが英語を身につけた習得法と、学校英語では何が違うのでしょうか?こう言っては身も蓋もありませんが、「何が違う」どころではなく「何もかも違う」というのが本当のところでしょう。私自身、高校時代に1年間の米国留学を経験しています。その上で、私自身は「学校で習った文法・訳読学習の上に英語力が身についた」のではなく、「何かまったく新しい言語回路を身につけた」というのが素直な印象です。もちろん、英語の産出(使用)においては、学校英語で習った文法知識に参照することはありますが、滞在数ヶ月を経過して、一度「新しい言語回路」を身につけてしまった後は、文法知識に参照する機会もぐっと減ります。つまり、日本語で話すのと同じように、英語が口から出てくるようになったわけです。
 現地で英語の大量「インプット」が行われた結果として、帰納的に英語を身につけることができました。これは、他の留学生や帰国子女、あるいはインターに通う学生にも共通していることでしょう。また、純ジャパたちも、それこそ英語の本を読み漁ったり、英語のドラマを見たり、暇さえあれば単語帳を眺めたりするような生活を送っていたようです。つまり、それらが英語の大量インプットとなって、彼ら(私も含め)は英語を身につけるに至ったのでしょう。

 この点に関しては『パルキッズ通信2021年1月号』や拙著『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)で述べているので、詳細は避けますが、簡単に説明すると以下のようになります。
 英語におけるインプットの役割は、大きく分けて2つあります。ひとつ目は、まず英語のリスニングの回路を作るためのインプットです。子どもの脳には、インプットされる音声を音素単位に分節して、単語を発見する能力があります。大量の英語のインプットによって、子どもたちはこの分節能力を習得します。また、音素やその上位構造である音節の知識、さらには超分節音の知識であるプロソディーやイントネーションなどを身につけていくことになります。
 そして単語を発見できるようになると、発見された単語はレキシコン(心内辞書)に記憶されていきます。ただし、初期の段階では、まだ単語に意味が付いていません。その状態でさらにインプットを繰り返すことで、同じ単語と様々な文脈の中で繰り返し出会うことになります。そこから、その単語の意味、あるいはイメージを身につけていくのです。
 これらが、英語におけるインプットの役割です。一言で言えば、英語の基礎回路を無意識のうちに学習させるためにインプットが必要ということになります。


多読は万能?

多読は万能? 他方、国語の方もインプットが重要です。しかし、英語を身につけるためのインプットと国語力を伸ばすためのインプットでは、少し様子が異なります。単純な話ですが、英語のインプットは、英語の回路それ自体を身につけるためのインプットです。それに対して、国語のインプットの方は、すでに日本語の回路を身につけてしまった子どもの日本語の能力、つまり国語力を高めるためのインプットという位置づけになります。
 「パルキッズ」ではもちろん、英語の回路を身につけてしまった子どもたちの英語力を伸ばすためのインプット教材も用意しています。「7-day English」や「The Book of Books」などの素読・多読教材がそれに該当します。これらの教材では、主にレキシコンを豊かにすることを目標にしています。

 国語力に関しては、「読書習慣」との関連がしばしば囁かれます。つまり、国語力を伸ばすためには大量の読書が有効であるということです。しかし、すでに『パルキッズ通信2023年10月号』で述べたように、国語力を伸ばすためには、何でもかんでも、ただたくさん読めばよいということではありません。例えば、読書習慣の身についている子は、語彙力においては読書をしない子よりも優れていることがわかっています。ただし、読書量と理解力に関しては直接の関係が見られないこともわかっています。
 もう少し説明しましょう。国語力を、「語彙力」と「理解力」に分けた場合、読書をする子の方が、しない子よりも語彙力においては勝っています。しかし、理解力に関しては、同様の関連性が見られないのです。ただし、もう少し詳しく見ると様子が変わります。
 「読書」にも色々あります。読書というと、おそらく小説を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。また、漫画も読書のうち、という考え方もあります。さらに、科学雑誌や歴史や文化の説明をする書物もあります。これらをごちゃまぜにして「読書」と一括りにした場合に「理解力」との相関は見られないわけです。ところが、細かく見ると、説明文、つまり科学雑誌や図鑑などを読む子は「理解力」が高く、漫画を読んでいる子は「理解力」が低めに出ることがわかっています。そして、小説はその中間で、あまり理解力には関係しないようです。
 つまり、読書によって語彙力は強化されるが、説明文を読まないと理解力が高まらないということになります。
 しかし、問題は、そもそも説明文を読む習慣が、なかなか身につかないということです。ストーリー物や小説などは、比較的手を伸ばし易いのですが、科学雑誌や様々なジャンルの図鑑、はたまた伝記などは、なかなか書架に加わることが少ないのではないでしょうか。
 なぜかというと、これらのタイプ(説明文の類)は、まず、その事柄自体に関心がなければ、読んでも面白くないからです。電車や自動車に関心がある子なら、電車や自動車の図鑑を何冊か持っていることでしょう。動物・植物に関心があれば、それらの図鑑や生態の説明などの専門書を持っているはずです。歴史上の人物、家康や一休宗全、ガリレオやニュートンに関心があれば、彼らの伝記を持っているでしょう。
 最近は、子どもたちに様々な科学に対する興味を喚起するための書籍も多く出版されています。しかし、それらは買い与えて読んでやるものの、子どもが一向に関心を示さない、などということも少なくないのではありませんか?
 なぜでしょう。ひと言で言ってしまえば、「存在を知らない」からなのです。存在を知らないもの、つまり知覚できないものには、人は関心を示しようがありません。もう少し詳しく見ることにしましょう。


知らない=存在しない=関心は向けられない

知らない=存在しない=関心は向けられない 目の前に存在しても知覚できないもの、と言われてピンときますか?例えば、『パルキッズ通信2024年6月号』でも少し触れた 「can vs can’t」などは好例でしょう。英語の通常発話では語末の破裂音は閉鎖音ですので、/t/ は歯茎に舌先を付けたままで終わります。つまり、/n/ で終わるのと変わりません。英語のプロの通訳でも文脈や話者の信念から判断をすることがあるようです。つまり、聞いただけではわからない。
 英語のプロでも判断に困るのですが、音声学者なら見極められます。単純に後者(can’t)の方が前者(can)より鼻音区間が短いのですが、理由も単純で後者では鼻音のあとに無声音 /t/ が来るので、声門の振動を早めに止めることになります。他方、前者は /n/ で終わるので、緩やかに声門の振動を収束させることになります。知っているから、見えるのです。
 イントネーションを含めたピッチの変動に、感情などのパラ言語情報が反映されますが、話者自体が無意識なことがあります。しかし、こんな概念を知っている人たちには音声に乗った感情が見えてしまうのです。
 言語学の話はこの辺にして、もう少しわかり易い例を挙げましょう。例えば、山間の渓流沿いをドライブしていると想像してください。釣り人なら「あの木陰にイワナがついていそう」とか「あの瀬にはヤマメがいるな」などと思いを馳せていますが、釣りをしない人にはただの「川」に過ぎません。バシャバシャと「足が冷たくて気持ちがいいだろうな」などと想像するかもしれませんが、その岩音で魚が「ビクッと驚くかもなぁ」とは感じないでしょう。つまり、知らないから見えないのです。
 もっと身近な例を見てみましょう。寿司屋に行く。お任せの寿司屋に行ったとしましょう。握られた魚とその名前の載ったメニューなどはありません。マグロやカツオ、タコなどはあまり種類がないのでわかりそうなものですが、白身魚や甲殻類、あるいは貝類などは、それらを知らない子どもには見分けがつかないでしょう。
 蝉の鳴き声も様々あります。アブラゼミ、ミンミンゼミから始まり、クマゼミやツクツクボウシにヒグラシなど、蝉の鳴き声を知っていれば、それだけで季節の移り変わりを感じることができますが、そうでなければ、すべてただの虫の声にすぎません。
 もっと日常的な例だと、道路標識が挙げられるでしょう。一時停止に進入禁止、駐車禁止に駐停車禁止、横断歩道に交差点あり、進行方向指示など様々な記号が身近に溢れていますが、これらも免許を持っていない人、あるいはまったく関心のない人にとっては、知覚の対象ではないのです。
 さらに言えば、町中にあふれる看板や、店外に提示されているレストランのメニューも英語で書かれていれば、英語を介さぬ人にとっては、目に入らない存在です。たとえ目に入ったとしても「自分には関係ない」と関心を向けることもないでしょう。

 つまり、存在を知らないもの、知覚できないものは、そこに存在しても関心を向ける対象にはなりません。とある子には見える列車の型番や自動車の年式も、見えない人には見えません。そして、見えなければ、それは存在しないと同じこと。つまり、関心の持ちようがないのです。


存在を「知らせる」ことから始まる

存在を知らせることから始まる このように、知らないことは知覚できません。目の前にあっても見えないのです。釣りや道路標識、季節の昆虫の鳴き声の話をしましたが、知っている人はそれらから様々な情報を取ることができます。さらに、英語を知っていれば町中の英語の情報も取れます。そして、ひとつのことを知っている人が、2つ、3つと知っている世界を広げれば、一枚の風景写真から取れる情報は際限なく増えていきます。無知な人にとっては単なるスナップ写真であっても、色々な知識を持っている人にとっては豊富な情報源となり得るのです。
 心理学を知っている人は、人の仕草や表情から様々な情報を抽出します。言語学を知っている人は、文章からあるいは発話から様々な情報を抽出できます。金融に詳しい人、政治に詳しい人たちは、ちょっとしたニュースの項目から「すわ。ここが潮目」と判断できるのでしょう。ただ、知らない人にとっては、その筋からの単なる発表としか受け取ることかできません。その背後に流れる情勢を読むことなど、到底できないでしょう。
 そして、ものを「知っている人」は「知ること」の虜になっていきます。そして、わからないことがあれば調べるようになります。そして、考えるようになります。すると、さらに世界を見る解像度が高まる。すると、今までは見えなかったものが見えるようになる。そして、関心を持ち、調べ、考えるようになります。このようにして、知識人とナイーブな人に二極化していくのです。もちろん、ナイーブであることは結構なことであることも、付け加えておくことにしましょう。
 この二極化、知っている人はさらに知りたくなることについて、具体的に例示しましょう。我が家の小さい人の話です。彼が年中4歳のときに、たまたま「大岡越前」の話を聞きました。そこに、年少の頃の徳川吉宗と大岡忠相とのエピソードがあります。事の真偽は別として、そこから吉宗に関心を持つようになります。縁をたどれば当然家康にたどり着き、そこから幕末の黒船、あるいは桜田門外の変へと関心が広がります。
 こうして、徳川歴代将軍と知り合いになった彼が、ウィンタースポーツを通して冬場に長野へ足繁く通うようになります。そこで、六文銭の真田さんと知り合いになります。すると関ヶ原の戦いに関心を持つようになります。関ヶ原と真田さんとなれば、当然、冬の陣と夏の陣に関心を持つようになります。こうして様々な戦国大名と仲良くなります。そうなると、大名たちの家紋やお城の場所、さらにはどのくらいの石高であったのか、さらにはその土地の名産品などにも関心を持つようになります。こうして、旧国名と現在の都道府県との関係、街道沿いの名所旧跡などの知識を得れば、日本地図を眺めながらいつも通るあの町をの名前を見ては「ああ、ここは中山道の宿場なんだ」ならば「特産品は…」と思いを馳せるようになるのです。
 歴史や地理の知識は、思考の源です。好きな関取の出身地を見ては「あー、あそこ出身なんだ」とか、ニュースを耳にしては「あそこでこんな事が起きたんだ」と、日常のニュースにさえ関心を持てるようになるのです。つまり、見えるようになる。

 ひとつのことを知って、そこに関心を持って、調べて考える。こうするうちに、知識の幅はどんどん広がり、更に深まっていくことになるです。つまり「そこに、それがある」ことを知ること、ここから知の世界が広がっていくことのほんの一例です。
 そのために、必要なことが、知識の種まきなのです。そして、知識の種まきは簡単です。「幼児教室プログラム」をお使いいただければ、知の世界の入り口にお子さんを立たせてあげることができるでしょう。


与えることはすべて理解しなくてはいけないの?

与えることは全て理解しなくてはいけないのか? そもそも本誌をお読みの段階で「インプット」に否定的な方はいらっしゃらないでしょうし、仮に懐疑的に「意味のわからないものをインプットしても無意味かしら」と首を少しかしげていた皆さんも、英語と日本語のインプットの重要性はご理解いただけたものと思います。
 さて、しかし、それでもやはり「インプットする」からには「理解させたい」と感じてしまう人もいるでしょう。あるいは逆に、「インプットする」と「理解せず」に、それは「記憶する」ことに繋がるのではないか?という深い洞察をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。ここでは、それらについて少し考えてみることにしましょう。
 最初にインプットと理解の関係、次にインプットと記憶の関係について見て参りましょう。

 結論から言えば、インプットした内容を理解してもらいたいという気持ちは捨てましょう。理解するためには、少なくともその対象に対する関心を持たなくてはいけません。関心を持てない対象について、理解させようとしても、それは単なる記憶になります。
 皆さんも記憶にありませんか?例えば、英文法では、三単現(三人称・単数・現在形)の場合、一般動詞には ‘s (発音は [z])’ が付きます。主語が自分でなく、相手でもなく、さらにはそれが単数の場合にこの規則が適用されます。これは、日本語においてどのようなことでしょうか。日本語では動詞の現在形、あるいは三人称に ‘s’ がつくことはありません。私であろうが、あなたであろうが、彼であろうが、それらが複数形であろうが「〇〇はご飯を食べます」で事が済みます。また、英語では名詞が複数になると ‘s’ を付けなくてはいけません。日本語では単数であろうが複数であろうが「おもちゃが散らばっている」のように ‘s’ を付ける必要はありません。
 ところで、この ‘s’ つまり、動詞につく三単現の ‘s’ と名詞につく複数形の ‘s’ は、何かもやもやしませんか?これらが同時に現れることはないのです。片方が現れる環境では、もう片方が現れることがない。これ、言語学の世界では「相補分布」と呼んでいます。例えば、英語の/l/ には、 light /l/ と dark /l/ があります。前者は light, belly のように音節の頭に現れます。後者は small, milk のように音節末に現れます。同じ /l/ なのですが、場所によって現れ方が決められていて、両者が入れ替わったりすることはありません。すると、言語学者は「三単現の ‘s’ も複数形の ‘s’ も、同じものの相補分布では?」と考えたりするのですから、エライものです。
 しかし、言語学者ではない大半の健全な言語使用者たちはそんなことは考えません。英語の場合には、「三単現には ‘s’ をつける」「複数形には ‘s’ をつける」と記憶します。世の中には、理解できないものもあるのです。
 英語以外でも、興味がない教科、例えば地歴公民何でも結構、授業で教わっても、ちんぷんかんぷん、理解ができずに結局記憶したという記憶はありませんか。そうなのです。つまり、関心がなければ、理解しようという気も起きない。そもそも、限られた知識では理解しようもないことが世の中には溢れていますし、それを僅かな授業時間内に理解させることなど不可能でしょう。そして、結果として記憶するようになるのです。

 しかし、家庭教育は別物です。与えるからには理解させたいと考えてしまうことも少なくありません。しかし、そもそも相手は年少で、理解力も高くない。さらには、その対象に関する認知も弱く、関心を持てない、となれば、少々の説明で理解できるわけもありません。例えば、小学1年生に対して「時速とは1時間に進む距離である」くらいなら理解できるかもしれませんが、正方形の面積の出し方すら知らない小学校低学年生に、三平方の定理を理解させようとしてみましょう。皆さんならどのように説明しますか?
 あるいは、理解の範囲を超えた概念を次々と導入して、長々と説明する結果になるか、あるいは「もう良い、とにかくこういうものなんだ!」と記憶させることになってしまうでしょう。物事を理解するには、準備段階として、その対象を理解するための知識と思考力が必要です。これらが足りていない段階での説明には意味がないのです。
 大切なのは、そのことの存在を知っていること。そのための種まきが、概念のインプットです。そして、「それがあることは知っている」という状態にしておけば、時が満ちたときに、それを理解できるようになるのです。「門前の小僧」や「寺小屋の論語」のようなものです。理解が重要なのではなく、インプットにより、そのものの存在を知っていること自体が重要なのです。


インプットと記憶の関係

インプットと記憶の関係 次に「インプットは理解をすっ飛ばして、記憶に結びつくのではないか」「記憶とは低次の作業、大切なのは理解だ、あるいは思考だと書いているのに矛盾していないか」という点について触れておくことにしましょう。
 『パルキッズ通信2022年9月号』でも「九九」を例示して、思考のチャンスを奪うことになるという論調で説明しています。ここでは「掛け算の仕組み」や「嵩(かさ)」の理解の機会を与えないことを危惧しています。つまり、知識の種まきとして「九九」を与えるのではなく、はじめから記憶の対象として「九九」を暗記させることを問題視しているのです。
 知識の種まきとして「九九」を与え、同時に百玉そろばんなどを使用して「嵩」としての掛け算を直感的に理解させる取り組みを行えば、それは「記憶」ではなく「仕組みの理解」に繋がります。同号で例示している、パンケーキの例もしかりです。嵩として与える中で、「九九」で種まきをするのは大いに結構なことです。
 子どもたちは、音を直感的に記憶する能力に長けているので、「九九」の音声を与えれば、それはダイレクトに記憶されていくでしょう。これは、前節で書いたところの種まきです。そして、実生活において嵩を例示しながら、「九九」の知識に紐づけていくことが行われれば、それは「知っている」から「理解できる」ことに繋がります。
 問題なのは、「九九」を暗記してしまったらそれで「良し」として、問題集をひたすら解かせるようなやり方です。そのように、大切なことー「嵩」を体感させること、四則の仕組みを理解することーを飛ばしたまま、それらは「クリアしたもの」と想定して、次のより複雑な概念へ進ませると、当然のことながら、より高次な概念は理解できません。そして、結局そこでも「記憶」に頼った「テストのための学習」が続いていくことになります。

 この流れの入口が、幼児期から小学校の低学年の段階に相当します。ここで、ボタンの掛け違いがないように気をつけなくてはいけません。そのまま放置すれば、現在の学校教育、塾教育、受験教育の「記憶」「反復訓練」そして、結局うまくいかない「応用」の流れに子どもたちは身を委ねるようになります。しかも、周囲を見回しても、みんなその流れに乗っているのですから、疑うことすらせずに、思考という高次の精神作業を「そんなことは時間の無駄」と切り捨てていくことになるのです。ああ、おそろしや。
 「小学校低学年」と書きましたが、小学中・高学年になるお子さんを持つ親御さん、あるいは中学生や高校生を持つ親御さんにおいては、「最早手遅れか」と残念に気持ちになっているかもしれませんが、そんな事はありません。原理など「理解しよう」と思い立てば、あっという間に理解できます。ソクラテスが問答を通して奴隷の子から幾何学の問題の正答を引き出した例(「メノン」より)にもあるように、人間には自然界の摂理を理解できる能力が備わっているのです。その能力を「発揮させよう」と親御さんが思い立ち、その思いが子どもに伝われば、そこで「思考」「理解」へのスイッチが入ります。諦めずに、取り組んでいきましょう。
 ただし、そのためには「子が親を尊重し」「親が子を尊重する」という相方向の健全な親子の関係が求められます。これに関しては、「地頭力講座」を受講していただくのが手っ取り早いでしょう。ちなみに、中高校生の親御さんにも多数受講中の方がおり、日常のちょっとしたことで、親子関係を深め、ひいては子どもの教育を正のスパイラルに載せることに成功していらっしゃいます。遅くはありませんので、募集している時期に参加してみてください。


忘れないことについて

忘れないことについて 最後に「忘れない」ことについて、一言付け加えて終わりにしたいと思います。
 記憶したことは忘れます。特に、意味を理解できていない記憶は、あっという間に忘れます。あるいは、幼児期や児童期、少し伸ばして思春期くらいまでの記憶は、それがまるで意味のない符号の連続であったとしても、老人になっても鮮やかに思い出すことができます。かくいう私も「いい国作ろう鎌倉幕府」などと記憶したものです。今では征夷大将軍になった1192年ではなく、守護地頭を置くという警察権と徴税権を得た1185年を幕府の成立としているようです。もっとも、幕府とは征夷大将軍が開くものなので「1192年で良いんじゃないの?」などとは思っていますが、そんなことはどうでも良い。
 何を言いたいのかといえば、「理解」していれば「忘れて良い」ということです。若い頃に記憶したことや、たまたま印象に残っていることは、記憶しているかもしれませんが、そうでない日常の事どもは一度理解してしまえば、忘れて良いのです。
 理解した段階で、知識は血肉となっています。言い換えれば、片々たる知識の記憶でなく、高次の抽象的な概念へと昇華した状態で、脳内に「あー、そんなことがあったなぁ」と新しい思考の手がかりとなる原理・原則として残っているのです。

 「理解したら忘れても良い」。なんとも心地良く心に響くではないですか。

 今回はインプットと記憶の関係、インプットと理解の関係について考えて参りました。長々とお付き合いただきありがとうございました。本稿を通して、「記憶を目的としたインプット」ではなく「来たるべき理解の始まる日へ向けた、種まきとしてのインプット」に着目していただき、インプットから理解へと、子どもの思考を誘導することの重要性に気づいていただければ、本稿を書いた甲斐もあるというものです。みんな、がんばれ!!


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

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