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2016年8月号特集

Vol.221 | ことばを身につけるのは複雑で簡単?!

英語学習のポイントは「休むことなく」

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
http://palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-1608/
船津洋『ことばを身につけるのは複雑で簡単?!』(株式会社 児童英語研究所、2016年)


特集イメージ1 先月号もこのような書き出しでしたが、『考えれば考えるほど「ことば」というのは不思議な代物』です。ことばは誰でも身につけることができます。逆に、ことばを身につけさせない方が困難なくらいです。幼児期であれば、ちょっとした刺激を与え続けることで確実にことばを身につけてしまいます。
 一方で、ことばは複雑なものでもあります。言語学者が束になってかかっても、複雑さが増すばかりです。ことばの法則は少しずつ解ってきていますが、どうにも複雑怪奇であることは間違いありません。そんなことばについて、今回はその複雑さを少し覗いてみましょう。
 外国語学習、特に英語学習をにおいては「好きになることが大切」とか「自然に触れさせると良い」などと言われますが、これらはまったく逆のことを言っています。「好きになる」とは、能動的に英語という言語に愛着を感じることでしょう。そして「自然に」ということは、積極的にではなく受動的にそこにある英語と触れ合うことを指しているのでしょう。さしずめ「好きこそ物の上手なれ」や「門前の小僧習わぬ経を読む」と、それぞれ言い換えられるでしょう。
 しかし、どうやら好きになってもなかなか英語は身につけられないようです。中学生の6割は英語を好きだといいますが、日本人の中で英語を使いこなせるようになるのは0.2%ほどとも言われます。つまり、好きになっても英語はできるようにはならないようです。
 逆に、英語ではありませんが、日本語は好きであろうと嫌いであろうと、日本に生まれた限りは身につけてしまいます。こう考えてみると「門前の小僧式」の学習方法に軍配が上がりそうです。しかし、繰り返しなりますが、なぜ触れているだけでできるようになるのでしょう。人とことばの関係は不思議です。


| 音の複雑さ

特集イメージ2 たとえば、聞き取りの問題を考えてみましょう。日本語の母音は「あ・い・う・え・お」の5つです。
 調音点(発音される場所と舌の位置)では、「あ」と発音されるときが舌が一番下にあり、口の中の体積が広い状態で発音されます。「い」は舌の位置が高く歯に近い位置で発音されます。また「う」も舌の位置が高い状態で発音されますが、「い」とは異なり歯に近い場所ではなく、口の奥の方で発音されます。そして「あ」と「い」の中間くらいの場所で「え」が、「あ」と「う」の中間くらいの場所で「お」が発音されます。
 しかし、これらは絶対的な位置ではありません。個人差があります。100人が「え」と発音すると、どれひとつとして同じ「え」は無いのです。しかし、日本人であれば誰でもそれを「え」と認識します。
 また、子音に関しても曖昧です。日本語には ‘th’ の発音[θ][ð]はありませんので、’d’ の代わりに ‘th’(有声音[ð])で発音しても ‘d’ として理解されます。たとえば「そうです」を ‘southesu’ と言っても何も問題なく通じるでしょう。しかし、同じ ‘th’(有声音[ð])でも ‘thenki’ と発音してみると「前期」か「電気」か、微妙な聞き分けになります。つまり、どこからどこまでが ‘d’ の音なのか、はたまた ‘z’ なのか、その線引きは曖昧です。それにも関わらず、日常的に何の苦労もなく音の聞き取りが行われているのです。


| 着る・切る

特集イメージ3 日本語は、開音節で母音で終わりたがる傾向のことばなので、英語のようにリエゾン(アンシェヌマン)しません。英語は、子音で終わる単語が多く、母音で始まる前置詞や副詞も多いので、それらが連続したときに繋がってしまいます。”I’m in.” は ‘aimin’ に聞こえますし、”What about it?” は ‘hwatabautit’ に聞こえます。単語ひとつずつなら聞き取れても、このようにアンシェヌマンしてしまうと単語が発見できなくなります。このことが日本人の英語の聞き取りを難しくしているひとつの原因でしょう。
 では、アンシェヌマンしないから日本語は聞き取りやすいのかというと、そうでもなく、日本語は日本語でまたややこしい問題があります。たとえば「着る」と「切る」です。アクセントは異なりますが、発音はどちらも’kiru’です。ところが、活用は異なります。(今さら「活用」など聞きたくもないという向きも暫しお付き合いください)「着る」は否定にすると「着ない」’kinai’ ですが、「切る」は「切らない」’kiranai ‘となります。上二段活用と五段活用の違いなのですが、もう少し簡単に言うとこれらの動詞では「語幹」が異なるのです。「着る」の語幹は ‘ki’ で「切る」は ‘kir’ です。’r’ までが語幹になっているので、活用するとラ行の音が入ります。
 これは、相当複雑な仕組みです。理屈で考えると、日本人の大人でも頭がこんがらがってしまいそうですが、いざ運用するとなると、無意識のうちに誰でも正しく活用できますし、それこそ、3歳児でも正しく使います。しかし、説明するとなるとこれほど難しいことはありません。
 ただ、勘違いはよく起こることです。日本語では「ぎなた読み」と呼ばれる「異分析」はいつでもどこでも起こっています。ちなみに、「ぎなた読み」とは「弁慶がな、ぎなたを持って…」といった具合に、単語の切れ目を間違えてしまう読み方です。少し古い世代ですと、「思い込んだら」を「重い、こんだら」と言えばぴんとくるでしょうか。
 この「異分析」は英語でもしばしば起こります。「(なんとか)バーガー」が日常的に使われる良い例でしょう。もともと ‘Hamburg+er’ だったものが ‘ham+burger’ と理解され、’ham’ の部分にいろいろ好きな物を持ってきて、造語されるようになったのです。
 このように、異分析や勘違いは確かに存在しますが、音素を聞き分けたり語幹を発見したりなど、人間は非常に複雑なことばに関わる処理をいとも簡単にやってのけているのです。


| 綴りと発音の不一致

特集イメージ4 現代英語は、発音と綴りが大きく異なることが珍しくありません。それも英語を難しくしているひとつの原因かもしれません。
 もともと英語は、発音と綴りが一致していました。年月を経るうちに発音も変化しますが、それに併せて綴りも変わっていました。アルファベットは表音文字ですから、音を表すのが本来の役割なので、アタリマエと言えばアタリマエのことです。
 ところが、それに変化が起こります。1300年代中頃から1500年代の半ばにかけて「大母音推移(Great Vowel Shift)」と呼ばれる、主に長母音に起こった発音の変化です。この時期にずいぶん発音が変わったのです。しかし、ちょうどこの頃、活版印刷が発明されました。すると発音が変わって行くのに対し、綴りは印刷され、発音が変化する前の綴りが生き残ったのです。そして、発音と綴りが乖離していきます。
 この頃にも、ずいぶんと勘違いが起こっています。’comb’ は ‘b’ が発音されなくなりましたが、綴りは ‘comb’ のままです。すると、似たような単語にもこのルールが適用されていきます。たとえば ‘thumb’ はもともと ‘thum’ だったのですが、不要だった ‘b’ をくっつけてしまい。そして、現在までその痕跡が残っています。


| 文法なんか知らなくてもOK

特集イメージ5 文法に関しても「なぜこんなことが解るのか」というほどややこしい問題を、我々は説明できないにもかかわらず、日常的に正しく使い分けています。
 たとえば、“Bob says Sam hates himself.” と “Bob says Sam hates him.” というふたつの文章を見てみましょう。先の文章は「ボブはサムが彼自身(=サム)を嫌っていると言った」、後者は「ボブはサムが彼(=ボブ)を嫌っていると言った」となります。
 言語学的に見ると、 ‘himself’ は節を飛び越えてえて対象を指し示すことはできず、’him’ は文節内の対象を指すことができません。これは、’c-command’(シーコマンド)という複雑な概念で説明することができるのですが、もちろん、そんなことを知らない我々でも普通に間違わずに使います。そして、驚くべきことに、幼児たちもこれを間違わないのです。再帰代名詞(’himself’ など)の使い方に関しては、5歳児でもほとんど間違えることはありません。


| 文の構造

特集イメージ6 ことばはとても曖昧です。ひとつの表現が何通りにも理解されることができます。
 「白い歯の強い男の子」この文章は一体何通りに理解できるでしょう。
「白い歯」なのか「歯の強い」なのか、はたまた「強い男」なのか、「男の子」なのか。健康な歯をした白人の小さな男の子を想像できますし、肌の色は無関係で単純に歯が白い屈強な男の子を想像することもできます。単語の並びだけ、もしくは文法だけでは説明できないことがあまりにも多いのです。
 また、文法に関しては「象は鼻が長い」に象徴されるように、日本語の主語の問題もあります。「は」とか「が」が主語を表す助詞であれば、この文章には主語がふたつあることになってしまいます。
 一方、英語には助詞がないので、文中のどの位置に現れるかによって、その語の役割が決定されます。”Bob loves Mary.” なのか “Mary loves Bob.” なのかは語順で決めるのです。このように規則が厳密なので英語のルールは比較的わかりやすいのですが、日本語は語順が比較的自由なので、外国人が日本語を学ぶときに難渋するようです。  また、日本語は主語がなくてもOKなことばである点も、日本語の理解を難しくしています。逆に英語は主語が必要というルールがあるために、天気や時間を表すのにわざわざ形式的に ‘it’ を用いざるを得ないという事態になってしまっているのです。
 日本語と英語は、音韻論的にも統辞論的にもかけ離れた言語なので、日本語話者が英語を身につけたり、逆に英語話者が日本語を身につけるのは、同じ語派に属する言語を身につけるのとは雲泥の差の困難さを伴うのは仕方が無いのでしょう。


| 文章表現

特集イメージ7 人間のコミュニーションにおける言語の占める割合は「メラビアンの法則」にあるように、わずか7%と言われます。次の38%がトーンやアクセントなどの音声情報です。例えば「田中さんですか」という文章を、残念そうにも言えるし、喜んでいる口調でも言えるし、驚いた口調でも言えるなどのパラ言語情報や、老若男女、健康具合などを示す非言語情報があります。そして、残りの55%が視覚情報です。これにはジェスチャーや見た目が含まれます。「見た目が大切」といわれる所以ですが、それでもわずか7%しか占めていない言語がコミュニケーションで果たす役割は重要です。しかし、その重要な言語が、これまた曖昧で不思議な使われ方をしているのです。
 イギリスの哲学者・言語学者グライス氏によると、ヒトのコミュニケーションにはルールがあるそうです。そして、ヒトはそのルールに則って話していると言います。
 たとえば、「明日映画に行かない?」という問いに対し、我々は普通、何と答えるでしょう。「行く」場合には問題は少ないのですが、「行かない」ときにはいろいろな言い方が想像されます。ストレートに「行かない」と言う方もいるでしょうけれども、あまりにもぶっきらぼうなので、もう少し工夫を加えるのが普通です。「難しいな」とか「ちょっと忙しい」と言えば婉曲的な断り方になります。しかし、それでもストレートさを感じてしまう人も少なくありません。そこで、さらに婉曲的に「ゴメン、明日テストなんだ」などなど明日のスケジュールを持ち出すことも日常的に行われます。
 さて、このように質問に対しての否定が行われますが、このふたつの文章の意味を字義的に捉えると会話は成立していません。「映画行く?」と「テストなんだ」には直接的な関係が見られません。それでも、会話は成立するのです。
 グライス氏によると、会話には「関連性の約束事」があって、無関係なことを言わないのが暗黙の了解なのです。先ほどの会話の例では表面的には関連性の約束を破っていますが、聞き手が「相手は関係のあることを言っているはずだ」と前提しているので、その前提に立脚すると、「婉曲に否定しているのだ」との理解に至るのだそうです。  また、初対面の相手に「お住まいはどちら?」と尋ねたとしましょう。このとき同じくグライスの「量の格率」というルールが無意識のうちに働いていて、相手から「埼玉です」とか「代々木です」あたりが出てくることを期待します。そんな前提のうえで会話が進むのですが、相手がこのルールを破り「日本です」と答えれば「なんだこの人は」と気分を悪くするでしょうし、逆に「東京都渋谷区代々木何丁目何番地」まで言われると、これまた妙な気分になります。
 このように、会話はその場に相応しい適当な量を守りながら行われます。他にも「質の格率」「様態の格率」などありますのでご興味のある方は検索してみてください。ところで、これらの格率を意図的に破ることによって、妙な印象を与え、それが笑いを引き出すことに繋がる、そんなことが笑いの芸能の世界では行われていて、それを研究している人も居るそうです。

 今回は、いくつかの例を挙げながらことばの複雑さをお伝えしました。
 繰り返しますが、ことばとは実に複雑な代物です。聞き取って理解するという作業は、日常無意識で行われるほど簡単で単純なことなのですが、その背景には想像を絶する知識の体系があります。そしてその知識の体系を「I(アイ)言語」と呼び、通常は母語ひとつですが、人によっては母語に加えて複数の外国語、つまり複数の「I言語」を持っている人も居るのです。
 ヒトが複数の言語を獲得できることは紛れもない事実です。そして第一言語(母語)獲得においては、別段その言語に特別な愛情を抱かなくとも「門前の小僧式」で身につけられます。その際には、アメリカ人の子は英語を2年で身につけるが、日本人は日本語を身につけるのに3年かかるといったような、獲得における言語間の差異もありません。英語でも日本語でも、言語には難易の差は無いのです。母語を2~3年で身につけられるのであれば、同じように英語も2~3年で身につけられるはずです。
 世は夏休みですが、言語獲得に夏休みはありません。休むことなく、せっせと音環境を与え続けるように、気を引き締めて残りの休みを有意義に過ごしましょう。


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プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

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