パルキッズ通信 特集 | コミュニケーション, 世間の認識, 将来, 理想と現実, 社会
2017年9月号特集
Vol.234 |「普通」を勘違いしている子どもたち、させている大人たち
理想と現実とのギャップに戸惑う子どもたち
written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)
※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。
引用・転載元:
http://palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-1709/
船津洋『「普通」を勘違いしている子どもたち、させている大人たち』(株式会社 児童英語研究所、2017年)
「最近の若者は…」この後にどう続けますか。私などは振り返ってみれば、碌な若者ではありませんでしたから、今時の若い人たちを見て「真面目」で「よい子」だな、と感じてしまいます。他方、いかがでしょう。年若の部下たちを見て「上昇志向に欠ける」とか「主体性がない」とか「コミュニケーション能力が低い」などなど、先輩社会人からいろいろなご意見が出てきそうでもあります。昔から年長者たちは、「自分たちは良い、そして若者たちはけしからん」という気運が高いようで、やれ「ゆとり」だ「さとり」だと揶揄するものです。このような感覚は自分と異なるタイプの人間を丸々受け入れることが苦手な、多様性に鈍感な日本人にはある程度共通しているのかもしれません。 ちなみに私の世代は「バブル世代」などと呼ばれていました。「バブル」とは言っても、我々は当時まだ社会に出て間もない頃だったので、より年長の世代ほどに好景気の恩恵にあずかったわけではありませんが、不本意ながらそのような言葉遊び的一般化の対象となっていました。また「新人類」などと、まるで日本人ではないような言われ方をした世代の端くれでもあります。いずれにしても、年長者たちが自分の若かった頃を棚に上げて、自分たちと感覚の違う若者たちをからかう風潮は根深いようです。もちろん当の私も、自戒の念を込めて書いています。 ところで、冒頭の質問に戻りますが、年長者となった皆さんの目には、最近の若者たちはどのように映るのでしょうか。運の良いことに、私はことあるごとに中学生や高校生、大学生、20代の社会人たちと様々な年代の若者たちと交流を持つ機会に恵まれています。そんな中で、勝手な見解を述べさせて頂くならば、「最近の若者は」と考えれば考えるほど、「お気の毒さま」の思いが募るばかりなのです。 私は言語が好きで教育に携わっているだけの言語オタクで、まったくの経済音痴ですが、日本の経済に関しては、ここ四半世紀近くせっせと確定申告をしている一国民として、また細々ながらも会社の経営者として、それなりに考えるところはあります。また、さまざまな談話の中や、偶然出合った書籍に目を通していて「なるほど」と感じることもあるので、そのあたりを門外漢の私見として今回はお話ししたいと思います。 最近読んだ本の中にデービッド・アトキンソン氏による『新・所得倍増論』があります。この本に当たり前のことながら興味深い考察がありました。曰く、好景気に恵まれ続けてきた団塊より上の世代や、ぎりぎり昭和の高度成長のおこぼれに預かってきた私たちバブル世代が経験した好景気は、その世代を生きた人たちの「頑張りのおかげ」でもたらされたわけではないらしいのです。「偶然の幸運」に恵まれただけだと、氏はその著書で述べています。しかし、なぜだかそんなラッキーな今の50代以上の経験した好景気を元に、日本の経済力を判断しがちな風潮がマスコミにも巷にも蔓延していて、景気は今「たまたま」低迷しているが、これから盛り返すという気分が支配的らしいのです。また、確かにそうだなあと感じます。 もちろん、まだ引退できていない我々バブル世代の中には、早期退職を含むリストラ、再就職や所得の低下を余儀なくされている同輩も少なくありません。つまりもう社会から退いてしまった人は良いとして、バブル世代でも長引く景気低迷のあおりを直接食らっている世代では、上記のような楽観的な展望を持つ人たちばかりではないのです。しかし、それでも、「日本にいれば大丈夫、日本の経済は大丈夫、だからうちの子は大丈夫…」と漠然と感じている人たちやその考え方が目につくのです。これは同輩たちや先輩たち、いや若者たちとの会話の中ですら、ひしひしと感じることです。 もちろん、それはそれで結構なことではあります。楽観的であること自体は、決して悪いことではありません。楽観的である事において生じる不利益の責任は自分が取れば良いのですから。しかし、親がその暢気さを子どもの世代に引き継がせるとなれば、これは深刻な問題でしょう。
| 「普通」が難しい
先月号のパルキッズ通信(「この夏、我が子の将来に向けてできること」)でも少し触れましたが、どうも学生たちは社会に関することに疎いようです。そんなことを書くと、「学生なんだから社会のことなど知らなくて当たり前だ」などと言われそうですが、確かにごもっとも。学生なのですから社会事情に疎いのは当然です。そして、20年ほど前までの日本では、それはそれで済んでいたのです。 日本では、先進国はもちろんのこと、途上国ですらあまり見られることのない「一括採用」で会社に入る。一度入社すれば「年功序列」で給料は上がり続け、たいした失敗をしなければ「終身雇用」で身分は保障される。そして何かが起こっても労働組合が家族と生活を守ってくれる。その後はリタイアして孫に囲まれながら悠々自適の年金生活が待っている。そんな時代であったならば、学生が社会のことなどを知る必要はこれっぽっちもないでしょう。 しかし今日、事情は一変しています。給料体系は以前の「年功序列」の右肩上がりどころか、台形のような形をしています。40代で早々に給料は頭打ち、そこから横ばいが続き、50代に入れば所得は下がり始める…。もちろん、この台形は業種によって異なります。保険、金融、医薬業などでは台形のピークが高くなります。さらに、職種によって台形のピークが50代より高年齢に傾くこともあります。逆にサービス産業では、台形は低く、早くも30代で頭打ちということもあるのです。 世は昭和ではなく平成です(今上天皇の退位が現実的になっていますので、平成もあとわずかでしょう)。しかも、ITの発達この方、世の中の変化のスピードは指数関数的です。日本的経営の「三種の神器」に代表される、古き良き昭和の好景気は昔の話、今は景気低迷の平成の経済にチューニングを合わせなくてはならない。学生時代にこそ、自分の将来をしっかりと見極めなければいけない時代になっているのではないでしょうか。 しかし、子どもたちの社会に対するイメージと、現実の社会の有り様の乖離は大きくなるばかりです。学生たちは、未だに「就職できればどうにかなる」と感じている節があります。大学入試で頑張ったように、就活でも要領よく振る舞って、社会の一端に滑り込めばどうにかなると。それは、親からすり込まれた、今の時代にそぐわない間違えた考え方なのですが、、、。 そんな彼等の思考の中心に、とても気になる考え方があります。「普通で良い」という考え方です。確かに、ずば抜けてお金持ちにならなくても、ずば抜けた職人技を身につけなくても、ずば抜けたキャリアを身につけなくても、どうにかなる時代はありました。そんな時代に生きていれば、結果として「普通」に落ち着いてしまっても、それはそれで良かったのでしょう。 ところで、「普通」とはどのような状態を指すのでしょうか。おそらく、結婚して子どもをもうけ、郊外に一戸建てを持ち、子どもたちを大学へ進ませ、家のローンも終わった頃に皆に惜しまれ退職して、悠々と年金生活へ突入する…と、こんな具合でしょうか。ちなみにこれはバブル世代より上の人たちの考え方です。結果としてそんな考え方の親の元に育つ子たちは、現実離れした社会のイメージを持つのかもしれません。ここで言う彼等とは、ゆとり世代と呼ばれる世代の子どもたちです。ちょうどその世代の真ん中辺り、脱ゆとりに舵取りが切り替わった頃小学生だった子たちが、今日、就職戦線を戦っていると考えて良いでしょう。仮に上に述べたようなバブルの夢を「普通」と彼等が考えているならば、考え方は改めた方が良いことは言うまでもありません。
『民間給与実態統計調査結果』国税庁 https://www.nta.go.jp/kohyo/tokei/kokuzeicho/jikeiretsu/01_02.htm
| 現実との乖離
現に、ゆとり世代の人たちがそろそろ結婚する年齢に突入します。しかし、彼等の親の世代とは経済状況は一変しており、子どもをもうけるどころか、あるいは家を建てるどころか、結婚すらもおぼつかない、そんな現実に彼等は直面しつつあります。彼等にすれば、「話が違うじゃないか」という感じでしょうか。 バブル経済の頃に、男女ともざっと20人に1人程度だった「生涯未婚率」は近年うなぎ登りで、男性で4人に1人、女性で7人に1人に上る勢いです。また、国税庁の給与実態統計調査によると、30年前に比べて平均所得も1割方目減りしており、年功序列も終身雇用も見込めず、将来の安定も望めないことから、結婚に踏み切れないという現状もひとつにはあるのでしょう。 ところで、今本誌をお読みの皆様の多くは、ちょうどバブル世代とゆとり世代に挟まれた世代の方々だと想像します。ひどいネーミングですが、「ロストジェネレーション」などと呼ばれ就職氷河期を過ごされた方も少なくないと思います。ちなみに、うちのスタッフにもこの世代が多く、「ロスト」という語感を嫌っているので「バブルを知らない世代」とでも呼んでおくことにします。 そのような時代を過ごされた方と話をするなかで、「今、景気が悪いと言われても、景気が良かったことがないので、今が普通です」と言われたのが心に残っています。確かに「失われた20年」とも言われる辛い時代を生き抜いてきた皆様からすれば、上記の昭和的「普通の人生計画」の話などは「ふ~ん」と一顧だにされないでしょう。その通りです。そして、そのような時代を生きてきた皆様は、バブル世代やその上の世代が、その子どもたち(=ゆとり世代)に施したような、暢気な世界観を抱かせるような教育はしないことでしょうし、強くそう願います。 しかし、政府も一部企業もマスコミも「昭和の呪縛」から逃れられないでいる現状があり、また、昭和の高度成長の理由を偏に「日本人の優秀さ」に帰するような気分が蔓延している中、「日本人は優秀だから大丈夫」と先の大戦の指導者たちの暢気さにも相通じるような論調が珍しくないのです。 しかし、高度成長を成し得たものの正体は、日本人の勤勉さや優秀さ―もちろん勤勉さがあってのことは言うまでもありませんが―ではなく、人口成長によるとの見方があります。つまり、かつて先進国中第2位であった日本のGDP(国内総生産)は、先進国中第2位の人口あってのものであり、国民1人当たりのGDPをみると、日本は先進国中最下位、それどころか全体の27位に甘んじているというのです。このあたりに関しては前出のデービッド・アトキンソン氏の『新・所得倍増論』に興味深い考察がありますので、ご参考までに。
『平成27年国勢調査 人口等基本集計(男女・年齢・配偶関係,世帯の構成,住居の状態など)』(独立行政法人統計センター)http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/GL08020103.do?_toGL08020103_&tclassID=000001077438&cycleCode=0&requestSender=search
| 日本だから大丈夫?
日本が、かつて開国を迫られてから1世紀半が過ぎますが、開国から半世紀も経たないうちに、日清・日露戦争に勝利し、そしてアジアで唯一、日本は列強国の仲間入りを果たしました。農業国から工業国へあっという間に転身したのです。その後、日本のみならず周辺諸国にとっても不幸な時期を経たものの、戦後の復興・経済成長の速さは目を見張るものがありました。そのため、日本人は特別だと感じてしまう、もしくはそう信じたいという思いを抱くのは、日本の歴史を知れば当然でもありますし、それをどう考えようとは個人の自由というものでしょう。 ただ、そういった思考が将来の日本に暗い影を落としてしまうことは避けたいものです。晩婚化や晩産化傾向、生涯未婚率の増加など、子どもたちを巡る環境は、お世辞にも良いとは言えません。そんな中「日本人は優秀らしいから」的な子育てや、人生計画は危険極まりないでしょう。 バブルを知らない世代の特徴として、なるべく物事を”背負い込まない“傾向があるそうですが、長引く不景気のせいか、コンピュータ化による仕事の効率化のせいか、企業も「バブルを知らない世代宜しく」社員を”背負い込まなく”なっています。四半世紀前には2割だった非正規雇用が4割に迫る勢いです。非正規雇用は正規雇用より所得が低く、時給ベースでは半分程度に留まっています。今後、非正規雇用が若年層に広がれば、さらなる晩婚化・少子化が進むことは予想に難くないでしょう。 さて、そんな時代の主人公の子どもたち―やれゆとりだ、さとりだ、つくしだなどと勝手に呼ばれる世代―は、景気の低迷が続く中、バブル世代以上の親が彼等に言っていることと、現実とのギャップをひしひしと感じている(あるいは感じることになる)でしょう。しかしそれでも、心のどこかで「まぁ、どうにかなるでしょう」といった暢気さはあるようです。 「赤信号、皆で渡れば怖くない」的な、皆と一緒にいて飛び抜けず、そして置いてけぼりにならずに「普通」でいれば大丈夫、という思いがどこかにあるように感じられます。そんな彼等は、争いを嫌い、目立つことを避け、堅実に、無理・無駄のないように生きるようです。世の中は競争の連続、目立ってなんぼ、無駄なことでもやってみなけりゃ分からない、お金は天下の回りもの…流儀の考え方できた私などからすれば、随分とお上品におとなしく育っているなぁ、と感じ入ってしまいます。 彼等は、自分の属する学校や会社は「優れた社会」だから、普通であればどうにかなると漠然と感じているのでしょう。しかし、現実には生き馬の目を抜くように目まぐるしく変化するご時世に、皆と同じでいれば良い、「普通」で良いと感じている彼等に危うさを感じないわけにはいかないのです。
『正規雇用と非正規雇用労働者の推移』(厚生労働省)http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11650000-Shokugyouanteikyokuhakenyukiroudoutaisakubu/0000120286.pdf
| 発信力とコミュニケーション力の欠如
また、「頑張れば良い」とか「良い仕事をすれば良い」という考え方もいろいろなところでお目にかかりますが、これも少々厳しい言い方をすれば、自分の苦手から一生懸命に逃げているようにしか思えません。良い仕事をして良いものを作っていればそれで良い、あとは世の中が自分を発掘してくれるのを待つだけ。少々極端かもしれませんが、そんな見方もできます。誰かが見つけてくれるのを待つというのは、いつか王子様が…というシンデレラストーリーに通じますね。 この考え方の先に、発信力はあり得ません。発信する必要もなければ、高いコミュニケーション能力すら必要ありません。良い仕事をしていれば、分かってくれる人が分かってくれるのですから、ことばは不要です。 もちろん、そんなギリギリの世界もあるでしょう。凡人には目利きできない神業の域にでも達すれば、それを極めれば良いのでしょう。ただ、あまりにも若い人からそんな発言が出てくると、げんなりしてしまいます。つまり自分は特別で、自分にしかできない事がある。社会を超越した存在であるわけです。そんな人たちに、発信力は確かに不要でしょう。しかし、残念ながら大抵の人は凡人です。凡人であるならば、とりあえず自分を育ててくれた社会に感謝し、その一員として認めてもらえるような努力をするのが賢明ではないでしょうか。 大半の人は、大学を出ればリタイアするまで、少なくとも40年は仕事をすることになります。いや、ひょっとすると死ぬまで働く時代がやってくるのかもしれません。そして、好むと好まざるとに関わらず、その40年以上にわたる社会生活を過ごしていくことになるのです。この会社やこの上司と合う・合わないといった次元ではなく、いかに世の中の役に立つ人間へ自分を磨き上げ、社会と調和しながら生きていくのかという次元でこれからの世代たちは彼らの人生を考えなくてはいけないでしょう。 そのように考えるのであれば、高い知識や技術力を身につけることは言うまでもなく、加えて、それらを最大限に活かしていくための発信力やコミュニケーション能力が欠かせないことも言うまでもありません。 繰り返しになりますが、もはや「優れた社会(日本)の一員としてそつなく過ごせばどうにかなる」時代ではなくなりました。かつて、温かく国民を育んでくれた日本は、人口減少にあえぎ、年金問題や国の借金問題にも見られるように、昔のような体力を失いつつあります。今までのように「普通」にしていてはどうにもならなくなっているのです。そんな時代を生き抜く子どもたちには、バブルで行き止まりとなった高度成長時代とは違った考え方、社会スキルを身につけさせる必要があります。 良い仕事をするのは当たり前で、その上で自分の技術・知識を社会と結びつける、つまり所得へと結びつけるためのコミュニケーション能力がより一層求められるようになっているのです。
| これからを生きるために
発信力やコミュケーション力というと、「喋ること」と捉えられがちですが、そうではありません。長々と自分のことばかり喋ったり、意味のないことをぐだぐだと喋ったりするのは、発信力やコミュニケーション力ではありません。情報を察知して、自分なりに理解・思考して、さらに相手に理解できるように発信する、この一連の情報のやりとりがコミュニケーションです。 しかし、日本ではどうもこの伝がうまく行かないことがあるようです。いくらスラスラと語る人の話でも、論理の筋道が通っていない内容ならば理解できないでしょう。ただ、そこで正直に「あなたの話の意味が分かりません」と言ってしまうと、それは「コミュ力がない」とか「空気を読めない」などと、訳のわからない話をする方ではなく、論理性に欠ける話を理解できない方が悪人にされてしまうことすらあります。 どうも日本では、相手の話の意味がよく分からなくても、適当に合わせて相づちを打っておくのが無難なことも少なくないようで、逆に論理的に話をすると、やれ「理屈っぽい」とか「人情が分からない」などと言われてしまうこともあるのです。 コミュニケーションによる情報の受け渡しに関しては、外国語の例がわかりやすいかもしれません。例えば、隣にいる外国人ビジネスマンたちが、自分の持っている技術や情報を喉から手が出るほど欲しがっているとしても、その会話の内容を理解することができなければ、このチャンスを察知することもできません。また、もしその英語の会話が理解できたとしても、的確に相手に自分の持っている技術や情報の価値を伝えられなければ、コミュニケーションは成立しないのです。 世の中の有益な情報の多くは、英語で発信されています。もし自分が誰かの需要に応える技術や情報を持っていたとしても、英語をコミュニケーションの手段として使えなければ、世界のどこかにいるその誰かにとっては、素敵な技術や情報は存在しないに等しいのです。 日本語の世界に限ったとしても、同じことが言えます。どれほど素晴らしい情報や能力を有していても、発信力と端的に伝えるコミュニケーション力がなければ、それらは世の中から見れば存在しないのと同じです。
| 思考力を支える論理性と知識力
コミュニケーションにはまず、聞いたり読んだりして情報を受け取る能力が必要となります。そして、理解して思考し、発信するわけです。その受け取りや発信の段階では、言語の運動・感覚系(音声を処理したり、音声化したり)の能力が必要になりますし、理解や思考には言語の意図・概念系(様々な思考)の能力が必要になります。有益なコミュニケーションには、聞いたり話したりすることに加えて、思考力が不可欠です。 さて、この思考力に関して、その優劣を決定付ける要素はいくつかあげられます。ひとつには繰り返し述べているところの「論理性」でしょう。これがなければ、相手と同じ土俵で情報を共有できません。しかし、これに加えてもうひとつ大切な要素として「知識力」があげられるでしょう。 いくら有益な情報がもたらされても、それを正確に理解するためには知識が必要となります。また、情報を発信する際も、知識に裏打ちされていなければ信頼性に欠けるでしょう。多くの知識を有することが、情報の理解度や発信する内容の質に大きく関わってくるのです。 「知識」と「知恵」に関してはパルキッズ通信2016年12月号『続々・船津流「育児論」』でも触れていますし、講演会でも繰り返し述べ続けていることですが、簡単にご説明すると以下のようになります。 世の中には、知識よりも知恵をありがたがる風潮があります。かつての「ゆとり教育」などはその好例でしょう。ゆとり教育の理念とは、知識の詰め込みばかりしてきた、それ(主にバブル崩壊)までの日本式学校教育ではダメで、自分で問題発見をし、自主的、自律的に物事に取り組んで行く「生きる力」を育む新たな方向が必要だというわけです。これはまったくごもっともです。 ただ、それまでの学習を知識獲得重視の教育に代表させ、これからの教育を知識詰め込みの手を緩めて、ゆとりをもって知恵を働かせる教育とするかのように世間が捉えてしまっていた印象があります。その結果、「知識と知恵はどちらが大切か?」と問えば、「知恵」と答えるのが良識派であるかのような雰囲気が形成されていったのでしょう。 しかし、主体性を持って自律的に生きていくことに対して、知識教育は何の害も与えません。それどころか、知識の教育がなければ、主体性や自律性があっても、何の役にも立たないのです。 知識とは言い換えれば、「世の中の認知力」です。知識の有無によって、世の中はまったく違った景色に見えてしまいます。極言すれば、知識がなければ、認知すら困難なのです。あるものについての知識がないということは、そのものを認識できないと言うことなのです。 例えば、普通車の運転免許を持っている人にとっては、路面や街中に溢れている交通標識はそれぞれ意味のあるものに見えます。ところが、免許を持っていない人間にとっては、それらは単なる印や鉄板に何事かが描かれている構造物に過ぎません。 同じように、船舶免許をもっている人間にとっては、港にある様々な構造物は意味を持って認識されますが、知識のない人間にとっては、それらは単なる風景の一部です。地図記号を知っていれば、地図やカーナビに表示されているそれらを認識できますが、知識がなければ、それらは幾何学模様をした単なる印に過ぎません。 世の中は情報に溢れています。それらの情報を正しく受けとったり、理解するために知識は不可欠なのです。 逆に言えば、今まで見えなかったものが、知識を得ることによって見えてきます。つまり、知識が増えれば増えるほど、受け取れる情報が増えるのです。知識を獲得するため、つまり、世の中からできるだけ多くの情報を取れる自分自身を作り上げるために、小学校から大学まで勉強しているのだと考えれば、勉強の意義も変わってくるのではないでしょうか。 「チャンスの神様は前髪しかない」という説法があります。チャンスの神様の後ろ頭はつるつるしているので、捕まえるためには前髪をつかまなくてはいけない。チャンスが通り過ぎてから追いかけても遅すぎる。常に待ち構えなくてはいけないという話です。これは確かにそうだと思います。チャンスはどんな人にも平等に訪れます。しかし、それをモノにできる人は限られている。チャンスが遠く過ぎ去ってから、「そういえばあの時がチャンスだったのか…」と後悔することもあるかもしれません。 チャンスは待ち構えなくてはいけない。と、まぁ、そこまでは結構でしょう。ただ、せっかく待ち構えていても、一体何がチャンスなのか分からなくてはお話になりません。チャンスを見極めるには、冷静かつ的確な判断力が必要とされます。そんな判断力は情報力に左右され、その情報力は知識力に左右されるのです。 さて、今回は、最近の学生達を見ていて感じる危うさ、また、そんな学生を育てている世間の認識の誤りについて書いて参りました。繰り返しますが、もはや高度成長時代ではないのです。放って於いても国がどうにかしてくれる時代ではないのです。そんな時代の子育ての方針として、子どもたちの知識を増やすこと、論理性を高めること、そして、皆と横並びを好むのではなく、主体性を持って判断し、自立心を持って物事に挑戦し続ける子に育てることが、今後の日本のため、ひいては子どもたち本人のためにも大切なことだと感じられてなりません。ただ現状、国はそれを我が子に施してはくれません。育児をする日常において、大変だとは思いますが、これらは親の手にゆだねられていると覚悟して、粛々と我が子の教育を勧めて頂けることを祈っております。
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船津 洋(Funatsu Hiroshi)
株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。