10万組の親子が実践した幼児・小学生向け「超効率」英語学習教材のパルキッズです。


カートを見る
ログイン
パルキッズCLUB

パルキッズ通信 特集 | , , , ,

ヘッダー

2021年12月号特集

Vol.285 | 子どもの教育に悩むたった2つの理由

決め手は「引き出す式」教育と「留める式」教育で

written by 船津 洋(Hiroshi Funatsu)


※本記事のテキストは引用・転載可能です。引用・転載する場合は出典として下記の情報を併記してください。

引用・転載元:
https://www.palkids.co.jp/palkids-webmagazine/tokushu-2112/
船津洋『子どもの教育に悩むたった2つの理由』(株式会社 児童英語研究所、2021年)


育児をしていると様々な悩みが生じます 育児をしていると様々な悩みが生じます。
 「ことばが遅い」「文字読みが始まらない」「学習習慣が身につかない」などの教育に関わる問題から、「食べ物の好き嫌いが激しい」あるいは「ゲームばかりしたがる」「お風呂が嫌い」「なかなか起きない」などの生活習慣、またはしつけの悩みまで多岐にわたります。

 大抵の問題は、気づけば解決しています。いや、解決していることに気づきすらしないことも珍しくありません。なぜなら、夜泣きやおねしょ、あるいは箸の使い方が下手だったり、特定の玩具に対するこだわりなど「すること」はよく見えるのですが、それらを「しないこと」あるいは「しなくなったこと」は見えないので気づきにくいのです。

 すると、いつの間にか解決していることから、先輩たちは「大丈夫」「うちもそんな悩みがあった」そして「時が解決してくれる」といったアドバイスをするわけです。

 本当に「時が解決してくれるのでしょうか?」

 もちろん、成長と共に解決される問題もあります。しかし、逆に、放置しておくと、成長と共にどんどんひどくなる問題もあります。しかし、それらも入園や入学、あるいは進学などの生活環境の変化によって一見「消えた」かのようにも見えてしまうのです。そして、「見えなくなった」ことで「解決」と早合点してしまうことも珍しくありません。

 これら子育ての悩みすべてを網羅的に扱うのは、パルキッズ通信の1回分には荷が勝ちます。しかし、ものは考えよう。基本的な考え方は、帰納的に導き出すことができます。

 つまり、子育て全般の問題を「たった2つの考え方」で解決しようというのが、今月号の試みです。

 さて、その「2つの考え方」とは、ひとつに「教育」という概念の捉え方の転換です。そもそも「教育」という語自体の使われ方が曖昧で、education, teaching instruction などすべてが教育と解されます。つまり何か「教える」ことが教育の第一義であるわけです。ここを少し見直すのが1点目。続いて「しつけ」や「生活習慣」の問題です。いわゆる子どもの「自主性」や「好き」に任せることによって引き起こされる、様々な問題に対する考え方です。

以上の2つの問題を「引き出す」ことと「留める」ことの2つの視点で見ていくことにしましょう。


instruction (teaching) と education の違い

instruction (teaching) と education の違い 「教育」ということばは、もともとエリートを教え育てる意味で使われていましたが、明治時代になってから、英語の ‘education’ の訳語としても広く使われるようになります。’education’ はラテン語の ‘educere’ からフランス語経由で英語に入った語で、 ‘ex(外に)’ ‘duco(引き出す)’ という解釈があります(異説もあり)。
 他方の ‘instruction’ は「(積み上げて)教える」の意味、 ‘teaching’ は古英語由来で、こちらも「(見せて)教える」という意味です。

 さて、’education’ の「引き出す式」教育、’instruction, teaching’ の「教える式」の教育の2つがあるようですが、日本で行われているのは徹底的に後者であることに気づかれるでしょう。

 それもそのはず、教室での一斉指導の現場では、一人一人から能力を引き出すのは困難ですし、それ以前に指導要領で教える内容が事細かに決められているので、先生方はそのカリキュラムに沿って、授業を展開するので手一杯、つまり、「一人一人から何かを引き出す」などということをするどころではないわけです。

 「教える式」の教育法は学ぶ内容が難易順に整列していて、それを機械的に与えていくことで徐々に学習者の知識を増強していくので、これは一斉授業向けです。また、個々の能力に応じてどんどん先に進めたり、あるいは足踏みする子に手をさしのべることもできます。
 他方の「引き出す式」の教育は手がかかります。一人一人の能力や進度、あるいは教科に対する適性などを考慮して、それこそ、一人一人に合った方法で、その子から引き出しやすい能力を、その子の成長に合わせて引き出していくやり方です。これを、日本の学校教育のシステムに当てはめるのは、とてもとても現実的ではありません。

 そして、問題は、ですね。「教える式」の教育に合わない子がいることです。

 「教える式」の教育法に合わない子とは、まだ教わる準備のできていない子たちです。何らかの要因があって、その特定の教科や取り組みを学習できる用意が調っていないわけです。例えば「概念を知らない」ことで「理解力が低い」のであれば、「教える方式」ではその教科を学べません。
 逆に超天才的な能力を持っている子は、まどろっこしい指導でつぶされることも珍しくありません。数学的な「量」や「平面」の直感がある子に、繰り返しの筆算練習は苦痛でしかありませんし、バイリンガルの子に日本人の先生による発音指導が入れば、たまったものではないことは言うまでもないでしょう。

 さらに、子どもには特性があって、歌が好きな子がいれば、スポーツに才能を発揮する子もいます。それらの子たちにあべこべの取り組みをさせても、すんなりと学べないケースもあります。もちろん、教科や取り組みとの相性の問題も、環境次第で克服できないわけではありません。
 例えば、音感教育をするのであれば、ピアノを始めとした楽器が必要でしょうし、体幹を整えたいのであれば、何らかのスポーツに触れる機会を増やすなど環境を整えることが必要です。そして、そのような環境整備ができていれば、子どもたちは自然とそれらの対象を「教える式」から学ぶ準備も整っているのです。

 つまり、子どもが能力的にまだ準備が整っていない場合や、その子の特性と教える教科とのミスマッチが起こっている場合に「教える式」の教育は効果を発揮できず、また、子どもたちにその教科を嫌いにさせてしまう危険すら孕んでいるのです。


「教える式」の前に「引き出す式」

「教える式」の前に「引き出す式」 さて、お子さまが、まだ準備ができていないのか、あるいは超天才なのか、はたまた教授対象との相性の問題なのかはさておき、「教える式」の教育法と合わない場合には、「引き出す式」の教育が効果を発揮します。
 言い換えれば、「引き出す式」の教育をたっぷり実践されて能力が高まっていたり、環境が整えられていれば、子どもたちは「教える式」の教育法でどんどん能力を伸ばしていけるのです。

 親がすべての教育を子どもに施すのは不可能です。従っておそらくどのご家庭でも学校教育を利用することになりますし、また、スポーツや芸術の「教える式」教育を受けることになります。
 つまり、ある程度以上の専門的な内容は「教える式」で学ぶ以外に方法はありません。そして、「教える式」の教育に耐えられるような能力を子どもたちに身につけさせるには、「引き出す式」の教育でその準備を整えておかないといけないのです。

 そして、これは、親にしかできません。

 この「引き出す式」教育をせずに放っておいて、小学校に入ったら突然塾に入れたり、あるいは習い事をさせたりしても、うまく行かないことや、なかなか成果が上がらないことは珍しくありません。子どもたちに学ぶ準備ができていないのですから、当然のことです。
 例えば、言語能力の低い子を算数の塾に入れれば、筆算は上手になるでしょう。しかし、その子が文章題を解けるかといえば、そうとは限りません。言語理解力が低い子は、文章題が解けません。
 そして、そんな子を目の前にして算数の先生は無力でしかありません。算数の先生は算数の先生であって、言語理解力を高める先生ではないのです。あるいはその方法を知っていても、それは月謝外の話なのです。
 また、学習習慣が身についていない、つまり学習に対する姿勢やモチベーションに欠ける子に、いくらピアノを習わせても上達しないでしょうし、走ることが苦手な子にサッカーを教えても、本人も苦痛でしかないかも知れません。

 ひと言でいえば、「教える式」教育はいくらでも専門家に外注できますが、そのための下準備を整えておかなければ、お金の無駄になりますし、子どもはその習い事を嫌いになるかも知れません。逆に「引き出す式」で子どもの能力を高めておけば、どのような「教える式」の教育にも対応でき、高い成果を上げられるようになることでしょう。


「引き出す式」学習法は親にしかできない?

「引き出す式」学習法は親にしかできない? 「引き出す式」学習法は、とても手がかかります。毎日子どもの様子を見ていて、我が子の好きなこと、上手なこと、あるいは苦手なことなどを、よく観察する必要があります。加えて、日々子どもたちは成長していて、できること、できないことも目まぐるしく変わっていくのです。「引き出す式」の教育では、そんな変化を見逃さず、適切に環境を整えていく必要があるのです。
 加えて、対象の子どもの教育方針とも関わってきます。親としては、子どもには様々な教育を与えたいと考えるでしょうけれども、すべてを与えることはできません。時間的な制約から、取捨選択が必要であることは言うまでもありません。そして、その取捨選択をするのは親なのです。  つまり、子どもを常に間近に見ることができて、子どの将来のためにどのように道筋をつけてあげるかを決定できる親が「引き出す式」教育の当事者であることが最も好ましいのです。


親が引き出さずに教えると…

親が引き出さずに教えると… さて、「教える式」は専門家、「引き出す式」は親と、ざっくりと適任者を決めましたが、このルールを守らないと、いろいろな問題が出てきます。特に、親が「教える式」を始めたときに、本来起こりえない様々な問題を引き起こします。
 我が子の教育は親はしない、というのは古くから武家では当たり前のように行われてきた考え方です。つまり、「教える式」教育は人に任せるわけです。そして、親は人前に我が子を出しても恥ずかしくないように「引き出す式」教育で、我が子のポテンシャルを高めておくのです。

 最近、このルールを破る親御さんが増えていますね。親が引き出す代わりに、教えてしまうのです。すると親子関係がぎくしゃくしてきます。そして、子どもは反発し、しまいにはせっかくの教育方針を放棄せざるを得なくなります。

 もちろん、子どもから十分にポテンシャルを引き出しておけば、親が教えることも不可能ではありません。つまり、「引き出す」→「教える」の順番を守れば良いのです。
 ところが、この順番を無視して、つまり親の役割(「引き出す式」)を飛び越えて、専門外の役割(「教える式」)をしてしまうわけです。そもそも、教育のプロでない親が先生であること自体、危険をはらんでいるのに、「引き出し」を済ませず「教える」わけですので、うまく行くはずがありません。
 成績が振るわなくても、他人の子であれば「月謝」のお付き合いですから、腹も立ちません。しかし、血を分けた自分の子であれば、モヤモヤが募ります。そして、怒ってしまう。自分の指導方法が正しいかどうかなど、まったく検証することなしに、なぜか子どもに対してイライラが募るわけです。
 親のイライラは、いくら隠しても隠し果せるものではありません。子どもはすぐに見抜きます。つまり、自分のことを「できない子」だと思っている親の心を見抜くのです。子どもは親の言ったとおりに育ちます。もちろん、言葉に出さなくても、言外の態度や表情に表れていれば、それは「口にした」もおなじこと。つまり、子どもはどんどん自信をなくしていくのです。


「引き出す式」教育の考え方

「引き出す式」教育の考え方 さて、この「引き出す」という考え方ですが、これは『パルキッズ通信2021年7月号』「風が吹けば桶屋が儲かる」で述べていますので、詳細はそちらを参照いただくとして、簡単に説明しておきます。

 ヒトは生まれつき、遺伝的にかなりの知識を持っていると現在の言語学では考えられています。
 なぜなら、かなり優秀な大人でも数年あるいは十数年、あるいは数十年かかる言語習得を、何も知らないはずの生まれたばかりの赤ん坊が、わずか2年で達成してしまうわけです。しかも、彼らが身につける言語能力の際立った「一様性」に思いを馳せれば、ヒトは生まれつき言語に関するかなりの知識を持っていると考えるのが妥当でしょう。
 また、数学的な知識に関しても、ソクラテスと奴隷の子の逸話においてプラトンが述べているように、ヒトは何らかの先天的な知識を持っていると考えるのが妥当でしょうし、物事の論理性や倫理観に関しても、同様のことが言えます。
 運動能力においてもしかり。親は子どもに対して、寝返りの仕方や歩き方を教えるわけではありません。どんな子でも、自然とそれらを身につけます。また自転車を与えれば、自然と乗りこなせるようになります。そこに必要なのは、自然にそれらに取り組める環境だけなのです。
 逆に言えば、環境さえ整っていれば、スキーでもスノーボードでも、テニスでもサッカーでも、子どもたちはそれこそ「何でも」できるようになるでしょう。

 つまり、環境整備が子どもの能力を「引き出す」ことになるのです。ここで言う環境とは、道具立てやスペース的な環境ももちろんですが、親の勇気づけや元気づけも含まれることは言うまでもないでしょう。

 その結果、そのことの基本的な部分を身につけたならば、後は専門家に任せれば良いのです。言語なら、日本語を身につけて、語彙力と理解力を高めておけば、国語力は自然と高まります。そして、この国語力の素地ができていれば、あとは算数や社会、理科の専門家にお任せすれば、グングン能力を高めていけるのです。
 芸術活動もスポーツも同じです。まずは親が「環境整備」をして、子どもたちからポテンシャルを「引き出し」ておく。後は専門の指導者が、グングン能力を花開かせてくれるでしょう。


王様を欲しがったカエルの話

王様を欲しがったカエルの話 とはいえ「教える式」教育に洗脳され続けてきた我々親たちは、子どもたちが、すでに持っている能力を「引き出す式」教育をすることなく、つまり子どもたちの中に眠る能力に目を向けることなく、常に子どもたちの外に目を向けてしまいます。
 我が子の中を見るのではなく、外(他所)の子と比較したり(「あの子はできる」のに「うちの子はできない」)、外から加えるべきものを探したり(「できるようにする」には「何をしたら良い」)。そんなことばかり考えています。
 子どもの中から才能やポテンシャルを引き出していけば、様々な問題は自然と解決されるのに、何か外から様々な能力を持ってきて、それを子どもに身につけさせようとする、「教える式」教育の虜になっているのです。

 一度、外から持ってくる「教える式」をやめてみましょう。

 それを常に心に思い抱き、あるいは忘れないようにするために、ひとつの寓話をご紹介します。以下、イソップ寓話の「王様を欲しがったカエル」意訳です。

 〜~~~~

 アテネが自由主義を享受していた時代、行きすぎた自由な社会から古いしきたりや規律を取り戻そうという運動から一人の王が生まれました。それを見てイソップが以下の話をしました。

 「カエルが沼で自由を謳歌していた。ところがカエルたちは自分の持つ自由の価値を忘れ、それよりも規律を求めた。そして、ジュノの神に、自分たちに王を送るように求めた。呆れたジュノはカエルたちの沼に丸太を投げ込んだ。驚いたカエルたちは、しばらくは静かに身を潜めていた。
 「しかし、慣れてくると次第に丸太の上で遊んだり会議を開いたりするようになった。王が役に立たないと言って、カエルたちはジュノに、新しい王を送るように頼んだ。そこでジュノは沼にヘビを送った。ヘビはカエルたちを次々と食べてしまった。カエルたちは怯えて暮らすようになった。
 「そして、カエルたちはさらにジュノに救いを求めたがジュノはこう答えた。これ以上の悪禍を招かないために、現状を受け入れよ。」
 —変化を望む前に、自分が何を持っているのかに目を向けましょう。—

 ~~~~~

 もはや、これ以上の説明は不要でしょう。外から何か持ってくることばかり、子どもに何が足りないのかばかりに目を向けるのではなく、いまの我が子の現状を喜び、次には彼らが持っているどんな素晴らしいものを「引き出す」のか、その点に目を向けてくださることを願うばかりです。


「引き出す」教育と「留める」教育

「引き出す」教育と「留める」教育 さて、「引き出す」方はご理解いただけたと思いますが、続いて「留める」方に進めましょう。

 私は我が子を含むたくさんの子どもたちと、その親を見て参りました。そんな中で「もうちょっと手綱を締めていれば」とか「なぜ無思慮にそれをさせるのか?」という親を見てきたので、その点について触れることにします。
 以下は持論ですが、個人的に「ヒトは完全な状態で生まれ、時間と共に “好ましくない” 方向へ劣化する」と考えています。もちろん、成長と共に様々な知識や技術を得ます。その点においては成長するのですが、老化(生まれた瞬間から始まる)に伴い「放っておくと」どんどん「劣化」すると考えています。

 例えば、悪友に交われば、どんどんその色に染まります。しかし、そもそもその悪友たちも元は「完全な状態」で生まれているのです。親が手をかけることを怠ったり、目を離したり、あるいは間違えた方向で子どもを容認したりすると、子どもたちは “好ましくない” 習慣を身につけ、そして、どんどんその方向へと自らを染めていきます。
 しかも、そんな仲間が増えれば、自然とその( “好ましくない” 方向への)流れは彼らの中で正当化され、さらに加速されます。このようにして、そもそも「完全な状態」で生まれた人たちも、倫理的に地に落ちることもあるのです。

 これは、別に特定の人たちのことを指しているのではありません。日常に様々な悪癖は潜んでいます。そして、悪癖は一度身につくとなかなか抜けないのです。そして、その悪癖によって、子どもの教育が妨げられてしまうことも少なくありません。

 特にあまり考えることなく慣れさせてしまい、その結果大切な時間を失わせる習慣があります。テレビ、ゲーム、YouTube…、他に何がありますでしょうか。テレビに関しては、これを擁護する人はもはやこの時代には少数派でしょう。しかし、ゲームはまだ容認する人は少なくない。YouTubeに至っては、これを推奨する人も増えているのではと訝るほど、子どもに触れさせている親が少なくありません。

 これらが、どれだけ彼らの時間を奪っているか。この点に思いを馳せなければいけないと思います。

 ちなみに ‘entertainment’ とは「楽しませる」ことではありません。その語源は「中に留まらせる」ことです。つまり、エンターテインメントの主目的は、その場に留めさせることなのです。その視点で各種エンターテインメントを眺めてみると、本質が見えてくるかも知れません。

 深い考えなしにゲームやYouTubeなどのエンターテインメントを与えると、それが習慣化し、しまいには中毒となり、そこから抜け出すのは大変です。結果として、そこに貴重な時間がつぎ込まれ、税金のようにコストが発生するのです。お金ならまだ良いとして、幼少期の貴重な時間を奪われること、つまり「引き出す」教育の時間が奪われることのデメリットは言うまでもないでしょう。

 もちろん、大人が息抜きにゲームやエンターテインメントに耽るのは結構ですし、情報を取るためにそれらメディアを利用するのは大いに結構なことでしょう。大人は自分の判断で、自分のことをすれば良いのです。しかし、子どもは別です。習慣化は、自分でコントロールできないのです。
 また、YouTubeなどというと、これをすぐにインターネット全体に拡大して議論される向きもありますが、これは意図するところではありません。インターネットは、どんどん使えばよろしい。調べ物に、物品の購入に、あるいは情報の交換や、勉強に仕事など、インターネットの利用は欠かすことができません。
 しかし、その中にエンターテインメントが入り込んでいることを忘れてはいけません。つまり、情報収集や生活に必要なインターネットの使用と、単なる「時間つぶし」を分けて考えれば良いのです。


 

日常に潜む劣化

日常に潜む劣化 子どもから時間を奪う、つまり悪習慣によってあるべき「引き出す式」教育の時間を奪う、そのことによって子どもを「劣化」させる例として、メディア、ゲーム、インターネットを取り上げましたが、それ以外にも子どもたちを「完全な状態」から “好ましくない状態” へと導く要素は日常に潜んでいます。

 「言葉遣いが悪い、嘘をつく、ずるがしこい、行儀が悪い、礼儀に欠ける、学習習慣が身につかない、サボる、手を抜く、モチベーションが低い」などなど、「やる気満々」「学ぶ気満々」の生まれたての「完全な状態」に「留まる」ことなく、いつしか「劣化」させてしまう例は、枚挙にいとまがありません。

 繰り返しますが、子どもたちは生まれながらにして、やる気満々です。しかし、人間には経済性原理が働きます。やる気に満ちあふれたステキな存在として生まれてくる私たちヒトには、同時に「面倒くさい」「新しいことはやりたくない」「今のままが良い」「できれば何もしたくない」という原理も働いているのです。
 その「面倒くさい」心をかろうじて支えて、生まれつき持っている「やる気」を「留める」ことが親に問われているのです。このたがが外れてしまうと、ヒトはどんどん楽な方に流れていき、ついには何もしなくなってしまう。そして、ゲームやネットに耽る。恐ろしや。

 これらをどのようにして「防ぐ」のか。よろしいでしょうか。「防ぐ」がポイントです。

 楽な方に、あるいは “好ましくない” 方向に流れるのを防ぐには、日頃から子どもたちの細かい変化や反応に目を配ることが大切です。
すなわち、我が子が乱れた言葉を使ったら、我が身を省みて気をつける。嘘をつく兆しを見つけたら、我が子を精神的に追い込んでいないか反省する。食事の行儀や礼儀に欠ける場合には、見逃さずに指摘する。サボっているところを見つければ、積極的に促す(この点に関しては『パルキッズ通信2018年1月号』「勉強する子に育てる方法」参照)、モチベーションが高くならないなら、環境を変えてみる。…などなど、好ましくない兆しには、即座に対応することが大切です。そして、これらはほとんどが親にしかできないのです。

 子どもが “好ましくない” 方向性を見せたら、そこで深く考えずに許してしまう。「みんなやっているから」「やらせないと可哀想だから」などといった理由にもならない理由で、商業主義メディアに流されてしまう。そのことによって、どんな結果が待っているのか、これを想像するのは親にしかできません。


親が放っておくと何が起きる?

親が放っておくと何が起きる? 好ましくない兆しを放置すると、子どもは「これなら許される」と学習します。悪い言葉遣いを放っておくと、どんどん言葉が雑になります。逆に、常に親が敬語で接するとどうでしょう。子どもに対しても最大限の敬意を払って語りかける。質問や会話には誠心誠意応じる。しかも、丁寧な言葉遣いで、です。これを繰り返すと、子どもも自然と敬語で話すようになります(『パルキッズ通信2020年7月号』「ことばを伸ばす親の話し方」参照)。
 例えば、音韻変化で「ない」を「ねぇ」と大人が言うと、子どもはすぐに真似します。「食べねぇ」「やらねぇ」「いかねぇ」と、この母音融合を覚えると、際限なくこの表現を使うようになります。
 また、「喰った」や「やんない」などの各種音便、あるいは「○○だよ」といった対立的な感情を表す終助詞(よ)の使い方なども、親が使うとすぐに覚えます。そのような兆しを見かけたら、即座に「ない」「食べた」「やらない」「○○です」と言い直すことが大切です。そして、もちろん、親自身が言葉遣いに気をつけなくてはならないことは言うまでもありません。

 うっかりYouTubeを見せてしまったら、「好きな番組1本だけ」と限定する、さらに視聴に条件をつけることも大切です。
 見せるにしても、子どもの好きな対象、例えば電車なら、車内放送や駅構内の放送などに限定するとか、消防車が好きなら特定のシーンに限定してみせるとか、見せるものは親が限定しないといけません。また、キャラクターものや玩具絡みのものは見せない方が良いでしょう。  「教育になるから」という理由で見せるのなら、それが本当に教育になるのか、この点も検討するのは親にしかできません。手放しで与えるのではなく、取捨選択しなくてはいけません。

 後悔先に立たず、とは言われますが、結局手綱を緩める、あるいは思慮なく与えてしまう、好きに許してしまうことによって、結局悩むことになるのは親自身です。
 玩具を買ってくれと泣き叫ぶ子に対して、どうすれば良いのかをインターネット検索する前に、そのような子に育ててしまったのは、過去の自分の無分別であることに思いを馳せましょう。


「ナイチンゲール」ではなく「カエル」で

「ナイチンゲール」ではなく「カエル」で これまたイソップですが、「後の祭り」「後悔先に立たず」に関わる寓話がいくつもあります。コウモリとナイチンゲールの話では、夜中に鳴く籠の中のナイチンゲールに対して、コウモリが「なぜ夜にしか鳴かないのか?」と尋ねます。するとナイチンゲールは「昼間に鳴いていて捕まってしまったから」と答えます。なんとも哀れな話ではありませんか。

 それよりも、井戸に入らないカエルの方が賢明です。自分たちの住んでいる沼が涸れてしまったので、新しい水場を探していたカエルたちが、浅い井戸を見つけます。これならピッタリと一匹のカエルが「ここに飛び込もう」と言うと、もう一匹が「ここの水も涸れてしまったら、もう水もないし、井戸からも出られなくなるよ」と諫めます。

 親も人間ですから、失敗することもあります。自分のことであれば、自分が責任を取れば良いのですが、子どものこととなると、最終的にその失敗の責任を取るのは、親ではなく子どもたちなのです。
 ”好ましくない” 方向は避ける、”好ましくない” 習慣は身につかないようにする、”好ましくない” 兆しが見えたら直ちに方向修正する。このような日常的な心がけが、子どもたちの「劣化」をとどめることになるのです。

 さて、今回は子どもたちの不要な「劣化」を防ぎ、「引き出す式」の教育を実践するというたった2つの育児のポイントを長々と書いて参りました。

 育児の悩みを少しでも軽減し、子育てを楽に、楽しく、そして子どもたちと一緒に過ごす幸せな時間にするために、以上の2点を心がけてみてはいかがでしょうか。


【注目書籍】『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)

特集イメージ9 児童英語研究所・所長、船津洋が書き下ろした『子どもの英語「超効率」勉強法』(かんき出版)でご紹介しているパルキッズプログラムは、誕生してから30年、10万組の親子が実践し成果を出してきた「超効率」勉強法です。書籍でご紹介しているメソッドと教材で、私たちと一緒にお子様をバイリンガルに育てましょう。


アマゾンで本を購入する


次の記事「パルキッズの取り組みQ&A~兄弟編」


まずは資料請求
今なら3つの特典つき

プロフィール

船津 洋(Funatsu Hiroshi)

株式会社児童英語研究所 代表、言語学者。上智大学言語科学研究科言語学専攻修士。幼児英語教材「パルキッズ」をはじめ多数の教材制作・開発を行う。これまでの教務指導件数は6万件を越える。卒業生は難関校に多数合格、中学生で英検1級に合格するなど高い成果を上げている。大人向け英語学習本としてベストセラーとなった『たった80単語!読むだけで英語脳になる本』(三笠書房)など著書多数。

この記事をシェアする

関連記事